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- 大町(近世)とは
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大町(近世) 江戸期~明治22年の町名結城城下22か町のうち御免地外構堀,俗称御朱印堀のうち屋敷地は地子免除の特権をもっていた町のほぼ中央を東西に通る3本の大通りのうち,中央の街路の両側の家並みによって構成され,城に近い方から上町・中町・下町に分かれており,各々に番屋が1か所ずつ置かれた設立の時期は文禄年間~慶長年間に結城秀康が新城下町を建設したときとされ,町名通り結城町の政治・経済の中心地を目指して設定されたと思われる元禄4年の結城町町中間数,家数,屋敷町歩書上帳による間数は3町42間で,結城十人衆とよばれた11人の町名主のうち9人が当町に集住していた(赤荻和弥家文書/結城市史)宝永5年の結城町明細帳控によれば,上町家数30軒うち15軒店借・1軒寺門前,中町家数31軒うち15軒店借,下町家数35軒うち14軒店借・冨士屋敷1軒・天王屋敷1軒また酒屋9軒・医師2軒・湯屋1軒があり,藩の御手船2艘を預かっていた中里次郎右衛門など豪商も多く,4・9日には六斎市が開かれた寺院は真言宗乗遍院,同正福寺・重林房があった(田宮佐兵衛家文書/結城市史)宝暦5年の町村惣商人仲間議定連書帳では,さかなや2・あら物や1・たこや2・とりや1・ふと物や1・くわしや1のほか15名の小商人がいた(本多新次郎家文書/結城市史)交通の要所で,下野【しもつけ】多功・宇都宮から久保田・下妻に至る街道と,江戸・下野小山から久保田・下妻に至る街道が,大町上町と西宮上町と大町上町とを画する十字路で交わっていた明治期に入ると,町役場も設置され,結城での大商店が並び立って政治・経済の中心地となったが,同22年町はずれの湿辺【しべ】に結城駅が開設されて以来,次第に姿を消す商店も多くなった明治22年結城町結城の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治初年の町名江戸期は若松城下郭外北部のうち上【うわ】町に属し,大町口の郭門を出て北に行く通り長6町54間余・幅4間余貞享2年の町風俗習(会津風土記風俗帳2)によれば,古くは郭外4町の1つ元禄12年の惣町切支丹宗門御改帳では8町の1つ(会津若松史3)寛文6年の会陽町街改基(会津風土記風俗帳1)によれば,もとは郭内にあったが,文禄元年蒲生氏郷のとき現在地に移ったといい,傍出町として一之町・二之町・三之町・四之町・道場小路町があるまた,大町竪丁・馬場立丁も見える竈数354・人口2,349(同前)至徳元年はじめて市祭を行ったという当町は若松城下の中心的通りとして繁栄し,なかでも一之町と七日町に分かれる辻には,高札場が設けられ,札辻と呼ばれたまた領内の中心点とされ,ここを起点に各地への距離が測られた化政期の家数353軒(新編会津)当町は商業の中心地で,刀鍛冶・銀細工・革屋・絹布屋・弓屋・荒物屋・豆腐屋・油屋・茶屋などの店が並び,貞享2年には職業の種類は48種に及んでいる大町の検断簗田氏は,蘆名氏以来の商人司として屋敷を与えられていたまた,倉田氏は蒲生氏郷の城郭修築の際に来住して検断となった古川氏は刀鍛冶を業とし,先祖古川和泉守兼定は織田家に仕え,その子孫が蘆名氏に仕え,以後会津に定住したという(同前)なお「新編会津」には,大町のうち五之町より北を大町名子屋町というとの記載もある明治初年に,若松を冠称した大町一之町・大町二之町・大町三之町・大町四之町・大町竪町・大町名子屋町・大町二之竪・大町原之町・大町三四之竪となったものと思われるが,詳細は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治19年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治11年の町名笠間城下の1町笠間城の西,北は愛宕町,南は枡形に接する笠間5か町の1つ町の規模は,南北5町・広さ8歩半文禄3年宇都宮国綱の家臣玉尾忠勝が笠間城を預っていた頃,石井村の住民を移し,町屋を形成した高札場が置かれた宝永2年「町方軒別書上」によれば,屋敷数98軒・店借52戸,人数652人,内訳は地作26(うち店借3)・穀売3・酒屋3・酒売2(うち店借1)・肴屋6(うち店借1)・肴売10(うち店借9)・豆腐屋4(うち店借1)・問屋2・旅籠屋2・鍛冶5(うち店借1)・荒物屋4など,ほかに上市毛村名主などがいた(県史料近世社会経済編Ⅰ)北側の愛宕町境に三所明神がある八坂神社は牛頭天王を祀り,祭礼は天王さんとよばれにぎわった寺院は浄土宗月崇寺が町の東側にあり,真言宗極楽寺・威光院などもあった明治11年笠間町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治20年の町名柏崎町の1町明治初年柏崎を冠称した場合もある天和年間検地帳では下屋敷21軒文化年間「白川風土記」に,「扇町ノ東ヨリ中町ノ西ニ続ク長サ四十六間許・幅四間家並南北両側戸数十九軒」とある町の北,東端に真言宗永徳寺がある永徳年間の中興でこの名があり,柏木の多い原野にちなんで柏原山という正保4年幕府より30石の朱印寺として栄えた明治2年永徳寺門前を分離し,小町とした明治20年柏崎町の一部となり,以後,大正4年まで通称町名となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治11年の町名江戸期は府中(厳原【いずはら】)城下のうち府中商人町24町の1町古くは浦港で,平津と称していた江尻橋から西の浜までの幹線道路にあたる地名の由来は,国府内の広い町という意味からである(津島紀事)大町の東側に十王町・浜町,西側に国分町が展開する明治2年の戸数52(県史藩政編)同11年国分町に合併... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」