ケータイ辞書JLogosロゴ 奥山新田(近世)


茨城県>利根町

江戸期〜明治12年の村名下総国相馬郡のうち利根川中流左岸に位置する幕府領村高は,「旧高簿」4石余はじめは下利根川通り加納新田前の流作場で,付近18か村組合(元文4年成立)の入会秣場であったが,寛保元年幕府勘定組頭堀江荒四郎が,この秣場を18か村に分割して新田開発を許可した奥山村はその権利を坂本宇右衛門1人に譲り渡し宇右衛門は独力で開墾し,翌2年勘定奉行神尾春央による検地を受けたもとより流作場で収量不安定なため,反高場とされ村高の決定はみられなかったはじめ宇右衛門請分のみを宇右衛門新田と称し,宇右衛門は1人持ち名主だったが,江戸後期奥山村の百姓に田地を売り渡し,以来他村請所分も含め総体を奥山新田としたと伝える江戸期には藤蔵河岸付きの魚米集散地として活気に満ちていた慶応2年の家数6・人口36(吉浜家文書)明治8年茨城県,同11年北相馬郡に所属同12年郡内に同名の村(現守谷町奥山新田)があったことから東奥山新田と改称
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7272351
最終更新日:2009-03-01




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