ケータイ辞書JLogosロゴ 小島郷(中世)


茨城県>下妻市

 鎌倉期から見える郷名。常陸国下妻荘のうち。親鸞門侶交名注文に「常陸国小島住 明空」と見える(光明寺文書/結城市史)。明空は親鸞門弟六老僧の第2番で,俗姓三浦氏。親鸞から光明寺を授けられてその開基となった。「光明寺系図」によれば,建保6年出家,文永2年遷化とあり,この文書は文永2年以前のものと考えられる。親鸞が越後配流を赦免されたのち,常陸国小島へ来たのは,小島郡司武弘の招請によるという(親鸞一代記)。小島氏の祖は,桓武平氏大掾氏流下津間城主清弘の甥郡司盛武で,父と不和になって下妻へ来たので,清弘は小島郷のうち5町歩を盛武に与えたと伝え,盛武の子小島清武の子が郡司武弘という。下妻弘幹追討後,藤姓小山氏流下妻氏も小島氏を優遇したといわれる(常総誌略)。応永2年10月17日の足利氏満充行状に「常陸国下妻庄内小嶋郷半分事,為武蔵国太田庄須賀郷半分之替,所充行也」とあり,当郷の半分が安保憲光に替地として充行われている(安保文書/神奈川県史)。しかし,応永24年3月10日の佐竹義憲充上杉憲基施行状に「常陸国下妻庄内小嶋郷事,早任還補御下文之旨,可被沙汰付下地於安保信濃守(宗繁)之状,依仰執逹如件」と見え,応永2年武州須賀郷半分の替地として当郷の半分が安保氏の所領となったが,その後何らかの理由で没収され,応永24年安保宗繁に当郷の引渡しを命ずる施行状が佐竹義憲に発給されている(同前)。応永年間と推定される大宝沼用水図にも「小嶋郷」が見える(吉田薬王院文書/新編常陸)。また,寛正4年の年紀を有する親鸞聖人御影の奥書に「常州関郡下間庄小嶋郷栗山光明寺什物也」とあり,この御影は本願寺蓮如から下賜されたものである(光明寺文書)。文禄の太閤検地を機に下総国豊田郡に属す。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7272414
最終更新日:2009-03-01




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