ケータイ辞書JLogosロゴ 加倉井(中世)


茨城県>水戸市

 室町期から見える地名。常陸国那珂西郡のうち。「新編常陸」は,「加倉井村妙徳寺古代ノ棟札数枚」が伝存していることを記し,紹介している。それによると享徳4年3月の棟札には,「檀那加倉井七郎幸久」とあり,康正元年5月の棟札には,「中西郡加倉井妙徳寺土葺」「寄進旦那加倉井彦次郎直久,同孫次郎光久,同彦三郎宗久」とあり,大永2年2月のものには「隠井山妙徳寺」,天正12年正月のものには,「中野西郡加倉井妙徳寺」「本願加倉井讃岐守重久」と記されているという。「和光院過去帳」の天正8年の条に「加倉井浄覚院」とあるとも見える。また「妙徳寺過去帳」には「天文十七戊申九(廿六日)於大部平ニ賀倉井ノ若方三人打死,敵御方卅余余人亡魂」とある。天文14年4月佐竹義篤の没後,義昭と江戸忠通の関係が悪化し,天文16年8月に入野郷で戦闘が行われ,天文17年には過去帳にみられるように大部平で戦闘が生じ,賀倉井氏方にも死者が出た。当地の妙徳寺境内にある加倉井館は,正安年間に江戸氏の家臣波木井実長により築城されたという。波木井氏はのち通久の代に姓を加倉井に改めたといわれ,天正18年滅亡するまで居城した。その規模は東西220m・南北110mの不規則な長方形をなし,二重の土塁と空濠が設けられていた。この様式は戦国後期のものと推定されている(水戸市史)。文禄3年の太閤検地を機に茨城郡に属す。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7272576
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ