ケータイ辞書JLogosロゴ 笠間(中世)


茨城県>笠間市

 鎌倉期から見える地名。常陸国のうち。笠間郡域をよんだものであり,鎌倉期に郡内に所在した大蔵省保も笠間保とよばれた(民経記寛喜3年8月巻裏文書/鎌遺2611)。嘉禎元年から「吾妻鏡」にあらわれる宇都宮成綱の孫時朝が笠間を苗字とし(尊卑分脈),佐白山にあった居城は笠間城・笠間ノ城とよばれた。なお,徳蔵布引山(七会村)の衆徒と対立していた三白山(佐白山)の衆徒生田坊から援助を要請されて出陣した宇都宮頼綱の子息時朝は,元久2年布引山・佐白山双方の僧坊を破却すると,佐白山南麓に城を築き,笠間を称したと伝えられるが(笠間城記),「尊卑分脈」によると,時朝は頼綱の弟朝業の子息とあり,文永2年に62歳で死去していることから(吾妻鏡),元久2年当時は2歳にすぎず,この時出陣したのは朝業で,のち子息時朝がこの地を領して笠間を称したと考えるべきか。建保2年越後から常陸に移住した親鸞は「笠間郡稲田郷」,現在の西念寺に隠居したと伝えられ(本願寺聖人親鸞伝絵/続群9上),この地で「教行信証」を書きつづったという。康永3年10月27日書写の親鸞門侶交名牒には,「笠間住」として実念・頼重(稲田九郎)の名を記している(浦和市史)。また建長7年10月3日の親鸞消息に「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」と見え,笠間の念仏者が性信の教説に満足できず,直接親鸞に質問したことに対し,返答をよせている(末燈鈔/古典大系)。南北朝期になると建武4年11月日の烟田時幹軍忠状に「為笠間城凶徒等対治,又義春被打向之間,時幹同馳向畢」と見え,南朝方であった笠間氏は,佐竹義春に攻撃されている(烟田文書)。応永4年,すでに明徳2年2月22日に笠間十二ケ郷一円の安堵下文を幕府から得ていた笠間家朝は,これを論拠に,石井郷半分に対する三聚院の当知行を排除するよう鎌倉府に訴えている(税所文書/県史料中世)。戦国期になると,天正9年頃からともに宇都宮氏の麾下にあった笠間氏と益子氏との関係が悪化し,同11年,益子氏は,宇都宮氏を離反して結城氏の援兵を得て中郡方面にて笠間氏と合戦を展開し,5月29日の戦いでは笠間方は大敗を喫している(宇都宮記/結城市史)。こうしたなかで,「兼而如申合,笠間為取扱」,出馬した佐竹義重は,同5月22日付で宇都宮国綱の出馬を多功孫次郎に要請し(石崎文書/栃木県史),宇都宮国綱も同日付で簗又次郎に対し「笠間之儀付而,明日可打出覚悟候,早々出陣尤候」と申し送り(簗主水文書/家蔵文書),また5月29日には結城晴朝から宇都宮国綱にあてて,「笠間・益子間種々雖助言候,于今無落居候,如何様一両日中企使者,笠間孫三郎(綱家)方へ可及異見候,其砌以使者同篇之御理可然候」と,笠間・益子両氏の争いの調停に関する書状が送られている(小田部庄右衛門氏所蔵文書/結城市史)。天正18年と推定される関東八州諸城覚書に「笠間ノ城〈笠間新旧斎(幹綱)〉」と見える(毛利家文書4/大日古)。この年4月下旬,笠間綱家は佐竹・宇都宮氏らとともに小田原在陣中の豊臣秀吉に謁しているが(佐竹文書/結城市史),同年宇都宮国綱に攻撃され,笠間氏は滅亡した(笠間城記)。こののち当地は宇都宮氏領となり,宇都宮家臣玉生美濃守が笠間城代として宇都宮氏の改易される慶長2年まで当地を支配した(家蔵文書/栃木県史)。文禄3年の太閤検地を機に茨城郡に属す。現在の笠間市の大部分と七会村南部の地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7272595
最終更新日:2009-03-01




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