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「鍛冶町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

鍛冶町(近世~近代)


江戸期~昭和50年の町名古河城下18か町のうち地名は,古河城出入の御用鍛冶職人が居住していたことに由来するという当地の鍛冶職人は野木神社(栃木県)周辺から移住し...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7272622]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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鍛冶町(近世~近代)

江戸期~昭和39年の町名江戸期は甲府城下下府中(新府中)23町の1町甲府築城にともなう新城下町造営により成立町人地三ノ濠で囲まれた郭内のうち南端に位置する上連雀町の南にあり,西は柳町,東は桶屋町に接する東西の町並み北側74間・南側65間(国志)町名の由来は古府の鍛冶小路の名を移したことによるという(甲府略志)鍛冶職人の町で,役引7町の1町として伝馬役・町人足役が免除されていた城下の諸役免除の鍛冶屋敷32軒のうち27軒が町内にあった戸口は,寛文10年215人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年34戸(上下府中間別/同前),享保5年226人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年187人(甲府町中人別改帳/同前),文化初年38戸・123人,うち男69・女54(国志),天保7年27戸・145人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)鍛冶職人の務め方は当初1軒につき1年に24人とされ,この代償として1日1人に扶持米7合5勺が支給され,ほかに鉄と炭代が渡された享保9年幕府領となって以後職人御用が減少したので,翌10年からは24人のうち扶持方を5人と定め,残り19人は無扶持で城内掃除人足または必要に応じた家職を務めることになった「裏見寒話」には町内に「鉈・鋤・鍬・鎌などの鍛冶あり」と見えるが,鉄物を扱うため金山大権現があって金山彦命を祀ったという源次右衛門家は先祖斎木助三郎が戦国期武田氏の御陣具御用を務めた由緒をもち,江戸期には当町に居住して,工町の枡屋が製作した甲州枡と桶屋町の桶屋弥五右衛門家が製作した斗桶に鉄具を仕立てることを家業とした享和3年4月柳町から発した城下の大火で37戸を類焼,嘉永7年3月には同じく柳町からの出火で35戸を類焼している私塾に文化元年加々美山登が開設した一二堂があり,明治4年の調査では教師1,生徒男10・女2(甲斐志料集成6)明治3年の戸数49,うち家持31・借家18(甲府町方家数人数取調書)同17年甲府総町戸長役場,同20年から甲府錦町外三十六ケ町戸長役場の管轄区域に入る同22年甲府市に所属同年の戸数61・人口267,大正9年の世帯数76・人口354大正5年設立の富士組は座繰糸共同揚枠場で従来の甲斐絹原料糸に代わって良質の羽二重原料糸を産出し,甲府の製糸工場の中でも規模の大きさをもって知られた昭和前期にはそのほか鉄工場・印刷所などもあり,戸口の漸増が示された昭和20年の空襲では全世帯数105が全焼(甲府空襲の記録)同26年の世帯数70・人口290同39年中央1~5丁目の一部となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は八戸城下の1町で,町人地城下の南端に位置し,北は大工町,東は類家【るいけ】村,西の一部と南は糠塚村に接する町名は以前は本鍛冶町に居住していたと考えられる鍛冶職人の移住によるものであろう裏町のうち「八戸藩日記」貞享4年8月16日の条に鍛冶町とみえるが,2年後の元禄2年12月城下に編入され,町奉行の支配下となった同書によれば,しばしば火事の記録がみえ,同7年4月3軒,享保8年2月15軒,同18年10月24軒,宝暦5年12月6軒,翌6年2月11軒,天明3年11月28軒,文化13年5月24軒がそれぞれ焼失している天明3年の飢饉時には,当町出先へ救助小屋が設けられたという(八戸藩史料)土木関係では,宝暦元年4月鍛冶町堰橋を修理し(八戸藩日記),天保元年9月には加治町水門が竣工している(八戸藩史料)当町は久慈街道の入口に当たるところから,天保5年正月久慈方面の百姓一揆勢4,000~5,000人が鍛冶町縄手まで押し寄せたという(同前)なお,幕末期の鋳物師に当町の初太郎が知られ,臼砲模型(大砲)が今に伝わる(上杉家蔵)明治初年の家数65(国誌)明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合があった同22年八戸町,昭和4年からは八戸市に所属明治27年の「八戸栞草」は穀物商1・材木商1・請負師1・大工1・飾師1を記載消防組織として四番組があった同35年,第1回八戸消防組競技演習大会が長者山で行われ,鍛冶町堤では放水大会が昭和初期まで続けられた大正4年5月,近藤元太郎が八戸初の常設活動写真館(新開座)を開設同9年には乗合自動車が当町を経て久慈まで走った同11年八戸鍛冶町信用組合創設同14年星三蔵によって設けられた八戸病院は,昭和14年八戸市立病院へ,同18年には日赤病院に引き継がれた世帯数・人口は昭和5年117・641,同35年241・1,346....

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は沼田城下町の1町沼田城の南に位置し,城下の南西端にあたるまず永禄3年に材木町・本町とともに割り立てられ,その後,慶長17年真田信幸がこの3か町の再町割りをしたという(沼田町史)町名の由来は,牛頭天王宮由緒記(沼田万華鏡14)によれば,鍛冶職の総元締である吉沢氏一族が天正12年当地に土地を賜り,鍛冶御用を勤めたことによる寺院に正覚寺がある永禄3年沼田万鬼斎顕泰は,根岸村にあった正覚寺を割り立てた当町に移し,根岸の旧例に従い,毎月4・6・9の日を市日として沼田に市を立てたこれが沼田における市日の初めという(沼田町史)正覚寺は慶長17年真田信幸夫人大蓮院により改めて現在地を賜り,同夫人の尊崇をうけた同寺には大蓮院夫人の墓があるまた同寺境内にある百体観音堂の祭りが毎年旧暦3月18日に行われ,近郷から多くの参拝者がつめかけたかつては観音祭りを節目に春の農作業を始めたといわれている現在は4月29日を中心に3日間行われ,植木市などが出てにぎわいをみせている道路は,明治18年清水越新道が完成し,同23年にはこの新道と沼田台地を結ぶ戸鹿野新道が開通した鍛冶町の町名は明治22年沼田町,昭和29年からは沼田市の通称町名として存続し,その位置は両道の開通により平坦部への玄関口として交通上重要な場所となったまず明治23年に渋川~沼田間の往復時間馬車の発着所ができ,さらに同41年沼田時間馬車株式会社が設立され,渋川・奥利根方面への運行が開始された同43年には利根軌道が設立され,軌道馬車による沼田~渋川間の営業が開始された大正7年には馬車に代わり電車が走るようになったが,同13年上越南線の開通によって鍛冶町起点の沼田~渋川間の路線営業はすべて廃止された昭和29年の世帯数368・人口1,796,同41年には世帯数532・人口2,092...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名姉小路通堀川東入の横町はじめ「毘沙門堂町」あるいは「多聞町」ともいい,その由来は当町姉小路北側中央から御池通に至る「妹ノ辻子」という小路の東に毘沙門天を本尊とする多聞寺があったことによる(坊目誌)また寛永18年以前平安城町並図には「ひしやもん町」の名が見られる一方,寛永14年洛中絵図に「かずや丁」,寛文12年洛中洛外大図に「鍛冶屋町」とあり,以後この名称が定着し,「宝暦町鑑」,天保2年「京町御絵図細見大成」に同じく「鍛冶屋町」と見えるまた,「文政二年軒役」には「鍛冶町」,慶応4年8月の府布令書,明治9年の京都区分一覧之図にも同じく「鍛冶町」と見え,現町名が定まったことがしられる現町名は江戸期,当町に多くの鍛冶屋が居住したことに由来する「京雀跡追」には小川通の項に「かぢや丁,丸や丁,右二丁は万鍛冶多し」「かぢさいくいろいろの中にもやすりの上手あり」と見えるまた,当町には四座雑色の上雑色五十嵐氏配下の下雑色山村氏が居住(雑色要録),元禄12年から宝永6年までは当町に「質会所」が置かれた(御触留)また明治政府の「寺子屋調査統計」によれば,当町に「暁雲堂」という寺子屋があり,寛政11年男130人・女120人,享和元年男30人・女25人が在籍していた江戸期は上艮組の油小路七町組に属し,55軒の軒役を負担祇園会には放下鉾の寄町として2斗2升の地ノ口米を納めた明治2年の町組改正から上京【かみぎよう】24番組,同5年第27区と改称,同25年第22学区に編成明治12年上京区鍛冶町,同22年京都市上京区鍛冶町,昭和4年中京【なかぎよう】区鍛冶町となり現在に至る大正7年の戸数131,人口男334・女298,家数119...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の東に位置する地名は,具足鍛冶師の芳兵衛・吉兵衛が居住したことに由来するといい(倉府俗話伝),鍛冶屋町とも称した東曲輪のうち正徳年間頃には1~2丁目の区画ができたというが(小倉市誌),天保年間頃の藩士屋敷絵図では,1~2丁目はなく,1丁目は宝町の3・4丁目,2丁目は武家屋敷および成願寺の境内になっており,町家は3~6丁目に記される幕末期の城下町屋敷絵図は丁目を記さずに,大坂町5~7丁目の南裏を単に鍛冶町とする通りを挟んで北側に29軒,南側に28軒の町家が並び,鍛冶屋の屋号を有するものは4軒地内には光明寺・教覚寺・全照寺・正福寺・祥雲寺などの寺院が見える寛政年間は天台系修験寺院で英彦山(現田川郡添田町)末寺の教学院薬師堂があった(倉府見聞集)享保飢饉では51人の餓死者を記録(開善寺過去帳)明治17年の戸数43・人口176,同20年の戸数91同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年北九州市小倉区,同49年からは同市小倉北区に所属昭和46年からは1~2丁目がある同46年一部が堺町1~2丁目・魚町1~4丁目となり,大坂町・堺町の各一部を編入明治25年広谷水産物製造所建設都心部の閑静な住宅地域であったが,昭和30年代後半頃から酒場・飲食店が増加北端を西鉄北九州線が通り,沿線には各種金融機関が並ぶなお森鷗外は,陸軍第12師団の軍医部長として小倉に勤務した最初の1年半,明治32~33年まで当町内に居住居家は市文化財に指定され一般に公開されている世帯数・人口は昭和50年161・487,同58年106・271...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治初年から明治22年まで豊橋を冠称江戸期は吉田城下二十四町の1つで,表町のうち町並みは慶長17年~寛永9年に成立元和4年頃に元鍛冶町から東海道筋の当地に鍛冶職人が移住して町名となる吉田城の南東,町並みは東西に続き,東は下モ町,西は曲尺手【かねんて】町に接する吉田宿伝馬役は平役町として人足役を課され,貞享元年には本門60軒のうち役門56軒で,出人足33人を負担した同5年の町並み104間1尺,道幅3間4尺,家数61正徳2年の吉田惣町差出帳によれば,家数42・人数372,庄屋は善右衛門寛延3年の吉田弐拾四町指出帳では家数62・人数327同年の吉田弐拾四町指出帳書抜では,高3石余,出火時出役人足20,町医者1・座頭1・農鍛冶45・畳師1,庄屋は吉左衛門,出水時に吉田大橋へ人足を出役(豊橋市史)鍛冶職人は仲間を組織し,名産は吉田鎌元文4年の出鍛冶覚によれば,六斎市の設置許可を得,商圏は浜名湖西岸から渥美【あつみ】半島の一部に及んだ安永8年の宗淳火事で類焼文政2年の家数61,天保9年の家数62明治10年の地価取調帳では面積5,460坪余・地価3,679円余同22年豊橋町,同39年からは豊橋市に所属昭和13年には豊橋銅鉄板金工業組合・豊橋竹工品工業組合・豊橋銅鉄商組合・豊橋箪笥業組合の事務所があった(豊橋商工案内)同33年東田町・下町・談合町・西新町・東八町の各一部を編入し,一部が曲尺手町・中世古町・談合町となる...

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鍛冶町(近世~近代)
江戸期~昭和42年の町名江戸期は烏山城下の1町町人地町名は,烏山藩の鍛冶工人が多数居住していたことにちなむ城下町の東部に位置し,城下の中央を南北に走る街道が仲町の中央で東西に通る道と交差するが,当町はこの四つ辻から東へと折れる道筋に町並みを形成するこの東への道は水戸への街道で,当町の東端は烏山城下の東端でもある享保年間の町絵図によれば,東端の入口木戸から仲町中木戸までの長さは127間半享保3年7月町年寄の1人である辻四郎三郎は,町名主板橋喜右衛門を保証人として那珂湊(茨城県)の大久保平兵衛に干鰯の買入資金100両を貸している(県史通史編4)寛政10年東郷8か村の農民が赤坂町仁兵衛・元町善兵衛の両荷宿を相手取った訴訟では,荷宿惣代に喜左衛門・与左衛門・儀兵衛・忠右衛門・久蔵の名が見え,他所からの入込み売買の自由や田町の仮荷宿が実質的承認を得,両荷宿による権限強化の試みはつぶされている同年の小年寄は次兵衛であった(県史近世4)天保年間および明治初年の農民騒動の際,東端の木戸からは東郷農民の乱入が繰り返された(烏山町史)なお当町は,明治8年烏山町,同22年からは烏山町烏山(大字なしの地域)に含まれ,鍛冶町と通称されたなお明治初年には当町の地先に日野町が起立している昭和41年中央2丁目,同42年表となる...

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鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の南西に位置する東は美濃職人町,西は上紺屋町,南は三丁目,北は下紺屋町に接する町名の由来は,森忠政が津山城主となったとき旧領地美濃(岐阜県)から刀鍛冶を呼び,この地に配したことによる美濃から移住したのは関の志津三郎兼氏の流れといわれる兼景長右衛門で,弟の新五左衛門,次男の宗右衛門が分家をつくり兼景三家といわれた元禄10年の城下町図によれば,家数55うち持家46・借家9,人数504(男283・女221)また,津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳によれば,当時鍛冶屋を名乗る家が35軒,原料の鉄屋が5軒あった兼景は刀匠で,美作住兼景・美作国津山住兼景など在銘も多いが,そのほかの鍛冶屋は刀剣以外の刃物や武器・武具一般の鉄関係部分も作っていた町内神に宗道神社があるもと津山城の南庭に祀られていたのを山北八子の八幡神社に移して宗道若宮と称し,森氏除封後当町内に遷したという(津山誌)祭神は天目一箇命で,古代の鍛冶部の祖神とされる明治初期の戸数59・人口305(同前)ほかの町が大きく変貌するなかで,当町は鉄工所・板金工作所・鍛造所などの形で数軒だが伝統を残している世帯数・人口は,昭和45年41・140,同55年43・131...

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鍛冶町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は出羽国山本郡(寛文4年まで檜山【ひやま】郡)能代湊【のしろみなと】のうち秋田藩領町立ては「享保郡邑記」で寛文10年とある町名は鍛冶業に由来能代五町組制でははじめ清助【せいすけ】町組,享保6年より上町組に入る戸数は45軒(享保郡邑記)元禄7年の地震被害は不明,宝永元年地震で新町・柳町とともに倒壊したが出火はなかった享保7年絵図で鍛冶町通りは柳町通りと接続し,出戸【でと】町・新町と交差享保13年絵図でも同じ西方は袋小路となっている寛保3年大火で万町などとともに焼け残る(旧記抜書之ケ条)「延享元年記」で柳町との境改正文化2年絵図で西方盤若【はんにや】町と結ばれている寛延3年の町役出銭は25貫文余,役前なし,町内遣裏番加番代2貫文余・月繋銭6貫文余・人足218人分13貫文余除屋敷はなく,短屋敷は久左衛門・半兵衛屋敷年長は湊屋与右衛門・鍛冶善左衛門(能代惣町本図帳)文化11年町内諸商売は鍛冶鎮守山王社祭礼には上町組として丁山第2番鍾馗を出す明治22年からは能代港町,昭和15年からは能代市の町名となる昭和41年住居表示実施により,大手町・西通町の各一部となる...

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鍛冶町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)大手門の西に接する堀端沿いの町で,谷越町と片町を東西につなぐ町名の由来は,鍛冶職の住居したことによる寛文~延宝年間頃と推定される館林先規之次第覚書(館林市立図書館旧蔵文書)によると,町内には鍛冶職の者11人が居住,彼らの定められた職役は年130人とある南東に鍛冶職の神の金山神社がある同社は明治43年代官町の長良神社に合祀されたが,のち旧社地に再祀されたなお館林城下6月6・7日の牛頭天王夏祭には,当町から刀鍛冶の山車を出す慣例で,弘化3年前藩主井上氏から秋元氏への引継書に「笠鉾一本,出し小鍛冶宗近,鍛冶町」と見える(館林藩史料/館林双書)「館林記」による延宝2年の家数は萱葺家25,人数は男57・女50,馬2(県史料集2)弘化3年の町方引渡帳(館林藩史料)では,長さ1町48間,家数29「嘉永元年館林城下地図」では家数28明治期に入ると,「県邑楽郡町村誌材料」による耕宅地9反1畝余町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同44年本町1~4丁目となる...

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鍛冶町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治44年~昭和22年を除き神田を冠称慶長8年の町割の時起立された町で,町名は幕府鍛冶方棟梁高井伊織の拝領地だったことにちなむ(府志料・東京地理志料)1~2丁目があり,1丁目の東裏を天保10年まであった頬焼地蔵堂にちなみ薬師新道,2丁目の東裏を木履製造者がいたため下駄新道と俗称した(江戸名所)また「江戸砂子」の著者,菊岡沾涼が居住また「紫の一本」によれば,天和年中,この地を掘ったところ,土製の恵比須が出土したため,掘った井戸を恵比須の井と名づけたという明治元年東京府,同11年神田区に所属明治2年鍋町【なべちよう】西横町の一部を合併し1~2丁目を廃止同5年の戸数318・人口1,427(府志料)昭和8年,千代田町・西今川町・西福田町・塗師【ぬし】町・新石【しんこく】町・竪大工【たてだいく】町・南乗物町・上白壁町・下白壁町・黒門町を合併し1~3丁目に改編昭和22年より千代田区に所属同41年3丁目の一部は現行の内神田3丁目,同49年1~2丁目は現行の鍛冶町1~2丁目となり,残余の3丁目の一部は住居表示未実施のまま現在に至る...

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