ケータイ辞書JLogosロゴ 烟田村(中世)


茨城県>鉾田町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。常陸国鹿島郡のうち。天福2年10月21日の烟田秀幹譲状に「徳宿郷内三郎朝秀分村々,烟田・冨田・大和田・生江沢」と見え,秀幹から三男の朝秀に譲与された(烟田文書/鎌遺4693)。文暦2年閏6月15日の将軍家政所下文に「徳宿郷内,烟田・冨田・大和田・生江沢,已上四箇村地頭職事」とあり(山口幸一氏所蔵文書/県史料中世),烟田朝秀は地頭職に任ぜられた。以来当地は戦国末期まで烟田氏の本貫地4か村の1村として,朝秀―幹泰―義幹―景幹―幹宗―時幹―重幹―幹胤と相伝された。しかし,鎌倉中期に至り,一族間に相続争いが起こった。弘安元年11月3日の関東下知状写によれば,義幹が父綱幹の遺領をめぐり綱幹の後家尼や家幹と相論に及んでいる(烟田文書/鎌遺13245)。また,延慶3年2月7日の関東下知状写でも,同様に義幹の遺領をめぐる烟田知幹と徳宿景幹の相論が知られる(烟田文書/鎌倉幕府裁許状集上)。一方,烟田義幹は正応2年8月18日「烟田村阿弥陀堂于不断念仏時衆料」として田数3町を寄進し,阿弥陀堂の保護を行った(烟田文書)。建武元年5月24日の雑訴決断所牒には「徳宿郷内鎌田」と見える(烟田文書/大日料6‐1)。室町期,再び烟田氏の支配は動揺し,応永33年11月の烟田幹胤支状によれば「先年鹿嶋社人等依申掠,惣領出羽守所帯於暫時被収公間,幹胤雖無誤,号惣領同心,幹胤知行分烟田・大和田者,一色兵部被拝領」と見え,当地の領主が一時一色氏となったが,まもなく幕府の裁許により返還された(烟田文書/神奈川県史)。永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写に「一,烟田 寿徳寺」と見える(続常陸遺文)。長禄4年10月18日の旦那売券には「常陸国釜田之仙蔵房」とあり,文明18年6月20日の道者売券にも同様な記載がある(米良文書/熊野那智大社文書)。代々烟田氏の居城となった当地の烟田城は,比高15m,東西300m・南北200mの丘陵上にあり,周囲には土塁と空濠がめぐらされていた。天正19年2月,烟田山城守通幹は佐竹義宣により太田城に誘殺され,代わって当地は佐竹氏領となった。文禄4年7月16日の中務大輔当知行目録写には「一,九百六拾三石五斗五升 かま田」と見え(佐竹義秀文書/家蔵文書),同年9月2日には東義久が布施久左衛門に当地内の鳥之巣村で700石を充行っている(那珂久左衛門文書/家蔵文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7272784
最終更新日:2009-03-01




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