ケータイ辞書JLogosロゴ 軽野郷(古代)


茨城県>神栖町

 奈良期〜平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国鹿島郡十八郷の1つ。「風土記」に「郡の東二三里に高松の浜あり。……此より南,軽野の里の若松の浜に至る間,卅余里ばかり,此は皆松山なり」とあり,この松山は伏苓【まつほど】(松の下に生じる薬草)・伏神【ねあるまつほど】(根のある伏苓)を産し,毎年それらを掘るという。この伏苓は「延喜式」の諸国進年料雑薬に常陸国からの貢上物として見える。さらに「風土記」には「郡の南廿里に浜の里あり。その東の松山の中に,一つの大きなる沼あり。寒田と謂ふ。……之万・軽野の二里に有らゆる田,少しく潤へり」と見え,「軽野より東の大海の浜辺に,流れ着ける大船あり。長さ一十五丈,濶【ひろ】さ一丈余,朽ち摧れて砂に埋まり,今に猶遺れり」とも記されている。当地はもと海上【うなかみ】国造の支配下にあり,その後常陸国鹿島郡に編入されたという。「万葉集」巻9に「鹿島郡の刈野の橋にして大伴卿に別るる歌一首」があり,「刈野」とは当地をさすとする説もある。比定地について,「新編常陸」は江戸期の居切・泉川・平泉・下幡木・筒井・賀・息栖・高浜・木崎・石神・因幡・芝崎・萩原など13か村とし,「地名辞書」は旧軽野村にあてる。「風土記」によれば,「軽野の里」は寒田の沼(神之池【ごうのいけ】)の南にあたり,東は大海(鹿島灘)で,また常陸と下総の2国の境である若松の浦(利根川河口付近)までのびていたことになる。現在の神栖【かみす】町南部の萩原・日川・知手・溝口・奥野谷などから波崎町全域に比定される。神栖町日川などでは古墳時代の遺跡が確認され,同町萩原の降野神社の名が「軽野」の転訛ともいう。波崎町には,土師器・須恵器を出土する別所遺跡・三番蔵遺跡・長照寺遺跡や太田古墳などがある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273076
最終更新日:2009-03-01




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