ケータイ辞書JLogosロゴ 黒子郷(中世)


茨城県>関城町

 南北朝期から見える郷名。常陸国下妻荘のうち。康永3年2月日の別府幸実目安状に「目安 武蔵国別府尾張太郎幸実申所々軍忠間事……一,同(康永元年)八月廿三日合戦之時被疵……致兵船黒子已下所々警固訖」と見える(集古文書/大日料6‐6)。千妙寺所蔵の三昧流由来事書に「延文五年庚子六月晦日始見聞,常州黒子千妙寺ニテ亮澄之言亮海筆受」と見え,この書籍を当地の千妙寺で亮海が筆写している(昭和現存天台書籍綜合目録)。千妙寺は,承和元年円仁(慈覚大師)により,現在の明野町赤浜に創建され,東睿山承和寺と号したのがはじまりで,貞観元年大恩寺と改称,のち16世亮守の代観応年間に当地に移転,千妙寺と改称したと伝える。同寺には延文5年以降も「黒子千妙寺」と記された多数の天台書籍が所蔵されている(同前)。永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写に「下妻庄内……一,黒子郷 道永入道 釜涌三河守知行」と見える(続常陸遺文)。檀那門跡相承資并恵心流相承次第の享徳4年5月24日に記された祐晴注記に「又同(常陸)国月山寺尊舜法印,権者左京殿ト申,山ヨリ下リ……其後権者左京殿,黒子ノ仙(千)妙寺ヘ御住アル也」と見え,権者左京なる人物が当地の千妙寺の住持となっている(逢善寺文書/県史料中世)。文禄の太閤検地を機に河内郡(西河内郡)に属す。「本光国師日記」慶長18年3月9日条によれば,慶長9年6月2日徳川家康が千妙寺に「常陸国河内郡之内黒子郷」で100石を寄進している(大日料12‐2)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273425
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ