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「五軒町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
五軒町(近世~近代)
①江戸期~昭和42年の町名表五軒町とも称し,江戸期ははじめ八王子町と称し,金町裏町とも称し,水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7273578]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 五軒町(近世~近代) 江戸期~現在の町名三条通白川橋東入の町江戸期は青蓮院領粟田古町五町組の1つ粟田口の西端に位置し,東国街道に面した交通の枢要地かつて天台座主明雲の三条白川坊の地であったが,町名は応仁の乱後に荒廃し,人家が5軒ほどしかなかったことによるという(坊目誌)正徳4年洛外町続家数改帳では家数25(荻野家文書)慶長7年浄土宗鎮西派智恩寺の末寺金剛寺が,粟田山一切経谷より移転以後市街地として発展明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】25番組,同5年第8区と改称,同25年第8学区に編成明治12年下京区五軒町,同22年京都市下京区五軒町,昭和4年東山区五軒町となり現在に至るなお当町の北側から北の堀池町に通じる小路を金剛寺ノ辻子というまた大正2年三条通の道幅を拡張し,京津電鉄大津線が敷設された |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 五軒町(近世~近代) 江戸期~現在の町名東堀川通高辻下ルの町江戸初期には「五間【ごけん】町」(寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図),中期以降にはすでに「五軒町」と記された(天明6年洛中洛外大図)「宝暦町鑑」の高辻堀川町の項には「一名五軒町ともいふ」とあり,江戸中期頃までは西隣高辻堀川町に含まれて呼称されることが多かったという昭和20年第2次大戦の本土空襲に備えて当町の建物疎開が実施されたが,戦後,堀川通の拡幅とともにその道路敷となった江戸期は川西九町組の吉水組明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】8番組,同5年第10区と改称,同25年第10学区に編成明治12年下京区五軒町,同22年京都市下京区五軒町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 五軒町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名中六日町横丁ともいった明治初年から明治22年までは若松を冠称江戸期は若松城下郭外北部のうち明治初年若松,同22年若松町,同32年若松市,昭和30年からは会津若松市の町名上【うわ】町に属し,野伏町の北の並び町名はもと家が5軒あったことによる化政期の家数5軒(新編会津)東西1町48間余・幅3間余寺院は蒲生入封のときに秀連が開いたという満福寺,同寺は博労【ばくろう】町自在院の末寺刀鍛冶の中条道辰が住した明治8年の戸数11・人口44(若松県地誌資料)昭和41年現行の旭町・行仁【ぎようにん】町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 五軒町(近世~近代) 江戸期~現在の町名大和大路通三条下ル西側の町鴨川の東畔町名は寛文6年町地となったとき,人家がわずか5軒にすぎなかったことに由来するという(坊目誌)大和大路の三条通に面し,交通上枢要の地として次第に発展南艮組新ン町の三条東五町組枝町に属し,11軒の軒役を負担(文政二年軒役)明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】24番組,同5年第7区と改称,同25年第7学区に編成明治12年下京区五軒町,同22年京都市下京区五軒町,昭和4年東山区五軒町となり現在に至るなお,大正4年京阪三条駅が開業... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 五軒町(近世~近代) 江戸期~昭和39年の町名江戸期は新発田城下の1町万町の南東端から田所町の通りに通じる町で,町並みは約30mであった町名は成立当初町屋が5軒であったことに由来する享和3年当町茂左衛門宅から出火して周辺の町まで延焼し,本屋48軒・借家42軒・寺1軒が焼失した明治22年新発田町,昭和22年からは新発田市に所属世帯数・人口は,昭和6年7・20,同16年21・110同39年大栄町1~7丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」