ケータイ辞書JLogosロゴ 坂村(近世)


茨城県>霞ケ浦町

 江戸期〜明治22年の村名。常陸国新治郡のうち。文禄4年7月16日の中務大輔当知行目録写に,新治郡として「一,八百九拾仁石八斗壱升 さか・もりさく・大宮」と見え(佐竹義秀文書/家蔵文書),もりさく・大宮は地内に字名として残る。はじめ佐竹氏領,元禄年間は幕府領,幕末期は土浦藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」では1,358石余(ほか新田18石余),「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高簿」ともに2,534石余。助郷は加助郷のほかに将軍日光社参の時の寄人馬徴収の賦役があり,古河宿まで出役(出島村史)。正保3年宍倉藩主秋田俊季が奥州三春へ国替となり,領地内の1万2,240石を水戸藩が拝領し,替わりに9,620石を上地としたために差の2,600石が無地高となり,当村はじめ6か村に1,740石が割り当てられた。このため小物成や賦役が課せられ,明治政府になるまで解消しなかった(同前)。元禄年間の「常陸国絵図」によれば当村に一里塚が設置されていた(同前)。猪鹿の農作物への被害が大きく,正徳3年当村・成井村・岩坪村・下軽部村が合同で上佐谷村の猟師彦六を3〜10月の間金子7両で雇うなどの対策を講じていた。のち元文元年西成井に猪鹿土手を設置したが,被害はこの後も続いた(同前)。「県方集覧」によると弘化年間頃に「入海表漁猟運上場」が設置されており,村ぎめの漁場の存在が裏書きされる(土浦市史)。文化13年霞ケ浦沿岸107か村に対して洪水防止のため「州浚い」(川路の砂浚い)の命が出されたが,当村を含む90か村はこれを拒否した。7年を経た文政5年土浦藩領田村の名主大川源左衛門が老中水野出羽守に越訴し,州浚い・定浚い人足御免となった(出島村史)。天保5年当村の名主長左衛門と土浦藩の出役高野喜蔵が結託し,不当な年貢取立や積金横領をしたことから志戸崎大騒動が起こった。惣名主の細野冉兵衛(深谷村)に貝塚恒助らが訴え,冉兵衛は彼らに味方して陳情し入牢となって獄死。出役は追放,名主は御役御免,恒助は事件の首謀者として打首,ほか8人が追放,20余人が糾明された(出島村史)。寺院は真言宗般若寺・慈眼寺・神宮寺・宝珠院・竜蔵院・弥勒院・持宝院・地福院・持明院,神社は八幡明神・白幡明神・諏訪明神(新編常陸)。明治8年茨城県,同11年新治郡に所属。同10年坂小学校創立。同13年当村二ノ宮の折本良平は高瀬舟の帆にヒントを得て風力による漁法を考案し,帆引き船が生まれた。同22年当村志戸崎の柳沢徳太郎が改良を加え,漁民の間にますます普及した(出島村史)。明治14年士族の開拓帰農を勧めるために創設された樹芸社が拝借をした官有原野の中に当地も含まれていた(同前)。明治22年佐賀村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273766
最終更新日:2009-03-01




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