境町(近世)
江戸期〜明治22年の町名。下総国猿島郡のうち。関宿藩領。村高は,「元禄郷帳」319石余,「天保郷帳」437石余,「旧高簿」493石余,「旧高旧領」437石余。宝永3年の高438石余・反別50町余,人数1,385(境小松原家文書)。天明5年の人数1,851(同前)。家数は,享保年間300軒,文政年間335軒(北下総地方史)。当町は境宿ともいい,日光東街道の宿場町を形成し,周辺の村々が助郷を勤めた。享保13年の将軍日光社参のような大通行には,上小橋・下小橋両村から南は大塚戸村・菅生村までの村々の人馬が徴発された。当町は利根川筋に位置するため堤防入樋などの設備や水害には村々の人足が集まる。寛政2年の千間堤水防普請は10か村1万648人を要し,経費が202両に及んだ。鹿狩の勢子数は少なく,寛政7年は17人であったが,例年はこの半分であった。関宿藩は幕末,勤王党と佐幕党に分裂内紛し当町もその余波を蒙った。慶応4年閏4月21日新政府軍の東征に伴い当宿へ通行が始まった。助郷は再三の農繁期免除願にもかかわらず,さらに終戦帰還にも勤めさせられた。当町には河岸があり,水陸交通の要所であった。特に小松原家は有名。宝永3年の明細指出帳によれば高瀬舟と茶船あわせて31隻があり,天明3年には137隻となる。干鰯問屋は元禄10年4軒。塩は鹿島・行徳(千葉県)から入り,蔬菜・穀物は消費地江戸へ積み出される(境小松原家文書)。寺社は,真言宗吉祥院・日蓮宗実台寺・香取神社・八幡神社。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273772
最終更新日:2009-03-01