ケータイ辞書JLogosロゴ 逆井村(近世)


茨城県>猿島町

 江戸期〜明治22年の村名。下総国猿島【さしま】郡のうち。はじめ関宿藩領,享保9年からは飯沼開発により幕府領。村高は,「元禄郷帳」344石余,「天保郷帳」1,710石余,「旧高簿」では853石余,ほかに逆井村新田856石余,「旧高旧領」1,710石余。元和元年大坂夏の陣に元逆井城主逆井播磨は子の常好とともに関宿藩主松平忠良に従って出陣した。享保10年逆井村新田を開発,天保7年の家数は200軒であったが,同年7月の大風で53軒が全壊。同14年の家数191・人数1,032(崎房秋葉光夫家文書)。助郷は,正徳5年古河宿の助郷を勤めた。享保13年と天保14年の将軍日光社参には人馬役を勤めた。元文3年と文久3年には古河宿と野木宿(栃木県)の代助郷を勤めている。慶応4年の会津戦争に際しては高100石につき10人弱の助郷を勤めている(北下総地方史)。元治元年名主逆井四郎右衛門は関東取締出役から天狗殺し公認の御触があったとして,村々に潜伏している天狗党員を捕らえるよう連絡し,竹槍を用意させている(馬立古矢家文書)。鹿狩には,高100石について享保10年・同12年は10人,寛政7年は8人,嘉永2年は6.5人の割合で勢子を出している。嘉永2年の勢子は,利根川対岸の中里村(千葉県)から手賀沼北岸まで布陣して鹿・猪などを小金原中野牧(千葉県)へ追っている(広瀬家文書)。鎮守は香取神社,寺院は浄土宗常繁寺。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年逆井山村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273783
最終更新日:2009-03-01




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