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「肴町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

肴町(近世~近代)


江戸期~昭和51年の町名江戸期は水戸城下下町の1町明治22年からは水戸市下市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名水戸城の南東に位置する町人町「新編常陸」によれば...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7273806]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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肴町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は盛岡城下の一町町人地城東地区に属し,中津川左岸の東に位置する町名の由来は,当地がはじめ鮮魚や乾物を扱う商人の町であったことによる(もりおか物語)盛岡藩が幕府に届け出た盛岡二十三町の1つ天明8年の家数53・人数489(邦内郷村志)町の規模は3町半程,市日は毎月7・17・27日と延宝9年8月31日に定められた(盛岡砂子)当町の東は外濠で,生姜町(煙草町)との間には土橋があり,その当町への入口に肴町御門がある(同前)また,当町の西で中津川にかかる中ノ橋際までの1町程を荒町といい,東の当町と南の呉服町,北の紺屋町のいずれにも属さないという(同前)城下の幹線道は西側にほぼ並行に位置する呉服町を通ったため,当町は幹線道からはずれた側【そば】町となっていた当地には万治2年から藩の御釜師初代小泉仁左衛門が居住したほか老舗が多く,城下で最も繁栄した町の1つである人家が密集しているため火災の被害が多く,享保14年・安永8年・文化3年の大火が著名である明治8年の戸数119(盛岡市史)同9年天皇巡幸に際して餌差小路との間に御幸新道が作られた同17年11月4日の大火では家数117・土蔵14を焼失する大被害であった明治4年志家村・東中野村の字名,同22年盛岡市志家・東中野の字名,昭和20年からは盛岡市の町名となるなお,「盛岡市史」によれば明治期には志家の字として見えない時期がある昭和20年一部で建物疎開が行われた同26年の世帯数103・人口565(男282・女283)同38年一部が中ノ橋通1丁目となり,同時に川原小路・六日町・鷹匠小路・呉服町・餌差小路・十三日町・餌差裏・馬町・餌差小路裏の各一部を編入して地内を再編成同45年の世帯数342・人口1,340(男619・女721)

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

肴町(近世~近代)
江戸期~昭和44年の町名江戸期は館林城下19町の1つ(館林記/県史料集2)延宝2年の館林城下町図(館林市立第一資料館蔵青山文書)によると,城下を南北に貫通する日光脇往還の東側に位置し,北は鍛冶町に続く町名の由来は,魚商の居住地であったことによる天保7年新藩主井上家中と前藩主松平家中との事務引継上の問答書(青山文書)によると,御膳入用については肴町湊屋吉蔵が納めるが,長熨斗などの運上品はないと,松平家中側は答えている「館林記」による延宝2年の家数は萱葺家36,人数は男73・女71,馬2(県史料集2)弘化3年の町方引渡帳(館林藩史料/館林双書)には町名が見えないが,「嘉永元年館林城下地図」には記されており家数24明治期に入り,「県邑楽郡町村誌材料」による耕宅地は26筆で広さ8反3畝余なお町域南端に海潮音ゆかりの青竜神社があったが,明治43年谷越町(現本町2丁目)の宵稲荷神社に合祀された(館林市誌)町名は,明治22年館林町館林,昭和29年からは館林市館林の通称町名として存続してきたが,同44年本町1~4丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

肴町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は出羽国由利【ゆり】郡のうち城下町本荘の一画をなす慶長7年~元和8年最上氏領(楯岡豊前守代官支配),同8年本多正純領,同9年から本荘藩領町方【まちかた】に属し,西町・大工町の合併した町名東は中町,西は古雪【ふるゆき】町,南は田町,北は猟師町もと魚市場があった(本荘自治史)西町の由来は,寛保3年摂津国西宮本社より神霊を遷座したのが西宮神社で,社名の西を取ったといい,宝暦11年とする(同前)日蓮宗八品派真浄山大法寺(本興寺末寺)がある慶長8年3月大坂の住人木屋三郎右衛門事故があって松ケ崎に住し創建(「羽陰温故誌」では僧日文を開基とする)したと伝え,元和9年大工町に移転したという同寺には旧本荘城の建物の一部を充てたという鐘楼がある町村役場が置かれ(もう1か所は中竪【なかだて】町),郵便局(西町)があった明治6年「藩主并ニ士族ノ協力設立スル処ニシテ金融ヲ専ラトス」る目的で大工町に洪融社が設置された(羽陰温故誌)同22年以降由利郡本荘町,昭和29年からは本荘市の町名となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

肴町(近世~近代)
江戸期~昭和45年の町名江戸期は仙台城下町方二十四町の1つ明治11年宮城県仙台区に所属同22年からは仙台市の町名譜代町の1つ大町北裏の町で,国分町と本柳町を東西に結ぶ大町に並行して割り出され城下で2番目に成立した町伊達氏米沢時代の東町に端を発し,岩出山に移ってこの町名に変わり,そっくり仙台に移住した長曽我部元親がこの町を開いたという伝説もある(仙台郷土研究10-2)譜代町としての特権は,九月御日市の開催,肴・肴宿(五十集【いさば】)の独占権,五十集問屋仲間が一町株として魚類仕入独占の株仲間を結成していたことなど藩権力と結びついて特権的営業を行っていた元禄期の人頭79(仙台鹿の子),「封内風土記」によれば宅地82・市人1,285嘉永5年の「宗門改」によれば人頭128・人数1,011明治以後は老舗の並ぶ静かな街となったが,戦災により壊滅中心街に近い利もあってオフィス街,旅館・アパートなどが並んでいる昭和45年現行の国分町1丁目・大町2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

肴町(近世~近代)
江戸期~昭和26年の町名明治44年までは牛込【うしごめ】を冠称古くは豊島郡野方【のがた】領牛込村に属し,のちに町屋が開けて兵庫町と称し,魚屋が多数居住していた「大猷院殿(徳川家光)御鷹野ありし時,この町より御肴を度々奉り御金を頂戴せり,さるによりこの地の名を肴町と改むべきよし」(改選江戸志)文政11年の家数65軒(町方書上)明治元年東京府に所属同4年行元寺門前を併合,一部を牛込岩戸町に編入翌5年近隣の武家地と寺地を併合同年の戸数141・人口520(府志料)同11年牛込区,昭和22年からは新宿区に所属「神楽坂の表通りにて有名なる縁日を有する毘沙門堂あれば最も繁華なり」(画報)同26年神楽坂【かぐらざか】1~6丁目の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

肴町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治13~31年は八幡を冠称江戸期は八幡城下の町名吉田川下流右岸に位置し,北は殿町,西は本町口,東は桜町に接する魚屋町とも書いた元禄5年「城下町家帳」では北の片側に12軒記され,魚屋3・餅屋2・傘・菓子・指物・油屋各1・郷通商人1・耕作人2南側は岩山があった(郡上郡史)天保10年の家数12(うち明家2)・人数32(郡上町中人家寄惣目録),文久元年「郡上八幡町中五人組連判帳」に肴町は1組16人が連判した殿町と交わる地に御作事小屋があり,今も「お作事」と通称する明治4年岐阜県に所属同5年の戸数12・人口70,同22年八幡【はちまん】町の大字となり現在に至る...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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