ケータイ辞書JLogosロゴ 佐竹郷(古代)


茨城県>常陸太田市

 平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国久慈郡二十郷の1つ。狭竹物部の類族がこの地に来住し,部族名の狭竹を郷名としたと伝えられる(新編常陸)。常陸太田市谷河原町に条里制の遺構が残り,同市天神林町に「延喜式」久慈郡七座の1つ稲村神社がある。稲村神社については,「続日本後紀」嘉祥2年4月庚寅条に「常陸国久慈郡稲村神預之官社」,「三代実録」元慶2年8月23日丙戌条に「授常陸国正六位上稲村神従五位下」,同仁和元年5月22日丙午条に「常陸国従五位下静神,稲村神並授従五位上」と見える。「稲村」は「稲材」の誤りという説もある(新編常陸)。祭神は物部氏の祖神饒速日命で,当郷に代々居住した物部氏によって管理・維持されたと思われる。同市天神林町の佐竹寺は,寛和元年元密上人の開基と伝える。のち佐竹昌義によって寺領を寄進され,佐竹氏の菩提寺となった。当郷は久慈郡家から大田郷に至る交通上の要地にあり,前九年・後三年の両役には源氏の主要な兵站路となった。以来当郷は源氏相伝の所領とされ,保延年間には新羅三郎義光の子義業が当郷に来住し(水戸市史),その子昌義の代から当郷に土着して佐竹氏と称した。昌義土着の事情は,「藩翰譜」は天承元年に大掾氏に寄居,のちに当郷内の観音寺(佐竹寺)に移ったと記し,里伝では長承2年に秀郷流藤原姓天神林氏の居城馬坂城(現常陸太田市天神林町間坂)を攻め取って土着したと伝える(中世東国大名常陸国佐竹氏)。佐竹氏は,当郷には2代忠義まで居り,3代隆義からは本拠を太田郷に移した。現在の常陸太田市南西部に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273866
最終更新日:2009-03-01




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