猿山村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。下総国猿島【さしま】郡のうち。関宿藩領。村高は,「元禄郷帳」130石余,「天保郷帳」191石余,「旧高簿」231石余,「旧高旧領」191石余。文化3年の家数30(猿島上郷窮民永救録趣法書)。鹿狩の勢子数は,享保12年23人,寛政7年は高100石につき8人の割で15人。助郷役は,谷貝宿に享保年間2回,天保14年将軍日光社参,明和2年日光法会などに人馬を出し,文政7年には中田宿の定助郷から指村され論所地改役人衆へ免除を出願。嘉永6年ペリー浦賀来航に際して農兵を調練に出し,同7年高10石につき1貫文余の割で費用を負担した。慶応4年会津戦争に伴う新政府軍の送迎に人馬を出した。一言主神社がある。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年長田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7273912
最終更新日:2009-03-01