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- 塩沢新田(近世)とは
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![]() | 塩沢新田(近世) 江戸期~明治9年の新田名佐久郡のうち「天正貫之帳」や文禄4年の「御郡中永楽高辻」などには塩沢村と見えるが,「正保書上」には「永不作村無之」と記され,一度は廃村になった慶安3年に借宿村によって開発され,寛文10年検地を受けたこの時の縄請人のうち19人は古開地の再開発も行っているはじめ小諸藩領,次いで幕府領,天和2年坂木藩領,元禄14年からは幕府領村高は,「天正貫之帳」20貫,「正保書上」3石余,寛文10年検地帳107石余とあるが,郷帳類では借宿村の高に含められていた火山灰の堆積層で高冷霧下の地であるため下田のみ,それも極少反歩で畑のみ多い土地で凶作に見舞われることが多く,平年作でも米の収穫は少なく雑穀に依存した(軽井沢町志)家数は,寛文10年19,正徳5年34,享和3年42,嘉永年間には23と減少文政8年には大凶作のため収穫皆無,他出人多数,借金莫大などを理由として助郷休役を願い出ている神社は諏訪神社明治元年伊那県,同3年中野県を経て,同4年長野県に所属同5年戸数37にまで回復した同9年長倉村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 塩沢新田(近世) 江戸期の村名勢多郡のうち塩沢川源流域に位置する幕府領村高は,「元禄郷帳」21石余,「天保郷帳」80石余名主を勤めた星野家の墓地には慶安5年・貞享2年の墓石があり,新田開発はその頃と思われる幕末の改革組合村高帳によれば,水沼村寄場組合に属し,高49石余,家数4「旧高旧領」には村名が見えず,江戸末期には塩沢村の一部となったと推定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」