ケータイ辞書JLogosロゴ 倭文郷(古代)


茨城県>瓜連町

奈良期〜平安期に見える郷名「和名抄」常陸国久慈郡二十郷の1つ「風土記」に「郡の西十里に静織の里あり」と見えるもと「静織」と書き,神亀3年に「倭文」と改称されたという(新編常陸)「風土記」に「北に小水あり丹石交錯れり色は碧に似たり火を鑽るに尤好し因りて玉川と号【なづ】く」と見え,久慈川と同川支流玉川の流域の台地上に位置する玉川からは火打ち石にするメノウが採れた郷名の由来は,「風土記」に「上古の時,綾を織る機を知る人あらざりき時に,此の村にはじめて織りき因りて名づく」と見える瓜連【うりづら】町静に新宿古墳群,同町大塚に大塚古墳,同町瓜連に古墳時代の瓜連遺跡と十林寺古墳群,同郡大宮町下村田に富士山・一騎山古墳群,同町上村田に古墳時代〜平安期の後三ケ尻A・B遺跡がある当郷には倭文部が居住し,倭文という布を織ることを業とした「万葉集」巻20に防人の歌の作者の1人として名の見える倭文部可良麿は当郷の出身と推定される倭文とは,経と緯の乱れ織りで,乱雑に入り交った織物をいう「延喜式」に常陸国の調として「倭文卅一端」が見える瓜連町静にある静神社は式内社で,祭神は建葉槌命天手力雄命と高皇産霊尊・思兼命を合祀倭文部の人達が,ハタの霊である建葉槌命を祖神として奉斎したもので,仁和元年に従五位上に叙せられている(三代実録)同社蔵の銅印は平安期神社印中の秀作の1つ「日本後紀」弘仁3年10月癸丑条に新設されたことが見え,「延喜式」に駅馬2疋を置いたことが見える田後駅家は,日立市田尻町に置かれたという説があるが(新編常陸ほか),当郷内(現瓜連町下大賀・大宮町下村田あたり)にあったとする説もみられる(地名辞書)瓜連町静の桂木稲荷神社境内に生育している静のムクノキは応徳3年源義家が奥州遠征の途中,京都から持ってきた鞭を境内に差し忘れ,それが生長して樹木となったといういい伝えがある現在の那珂郡瓜連町と同郡大宮町の南部に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274037
最終更新日:2009-03-01




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