ケータイ辞書JLogosロゴ 島田村(近世)


茨城県>水戸市

 江戸期〜明治22年の村名。常陸国茨城郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」617石余(ほか新田20石余),「元禄郷帳」779石余,「天保郷帳」809石余,「旧高簿」783石余。天保13年の検地帳では田畠91町4反余・分米774石余(新編常陸)。助郷は長岡宿に出役。「水府志料」によれば,浜田組に属し,戸数70,村の規模は東西16町余・南北15町余,秣場約8町と水戸藩の穀留番所がある。土地を寺に寄進してその人足割当から逃れ,涸沼川のシジミを採って,遠地にまで行商に出掛けて生活していた者がいたと伝える。香取神社は往古の志万郷の総社かと伝える。郷倉が松戸の地に置かれた。御立山が松並の地にあり,大御山守は木村三穂介,木村勘兵衛。天保初期頃,この松並地区に新田が開発された(水戸市史)。のちに湊郷校の取締役になった木村三穂介は村内で子弟の教育を行い,木村平右衛門は父の代から教育者の系統で,塾を開いて多くの門弟がいた。木村三穂介が取締役になってからは,郷校から落合経正を呼んで寺子屋を松戸に開き子弟の教育にあたらせた。木村三穂介,弟の円次郎など多数の当村出身者が元治の乱に参加し,殉難した。この乱では当村民の大半が天狗党に加勢し,島田勢として威を振るった。湊郷校出身者が多かったことと,木下【きうる】しの地の穀留番所の役人だった人たちの烏帽子子たちが当地に多く,彼らが烏帽子親に忠誠を誓い同一行動に出たためであろう。島田には,今から150年位前から第2次大戦前まで,七之介様と称するお宮のまわりを女の人が肌を出して歌いながら踊って雨乞祭をする伝習があった。地域の最も南側の木下しは鹿島に通ずる交通上の要所であった。はじめ当村の児童は明治6年創立の大串小学校に通学した。明治4年茨城県,同11年東茨城郡に所属。明治22年稲荷村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274090
最終更新日:2009-03-01




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