ケータイ辞書JLogosロゴ 下幸嶋荘(中世)


茨城県>岩井市

南北朝期〜戦国期に見える荘園名下総国のうち古代の猨嶋郡は中世に入り上幸嶋・下幸嶋に二分されるが,このうち下幸嶋は荘園として立荘されるただし,上幸嶋・下幸嶋をあわせて幸嶋荘とも称された幸嶋下荘とも見える年月日未詳の所領注文案に「一,下総国 下河辺庄〈付新方〉幸嶋下庄 大方郷」と見える(小山文書/栃木県史)この所領注文案は,従来は鎌倉期の小山朝政所領注文案とされているが,その内容・成立年代が疑問視され,阿曽沼氏の所領と室町期以降の小山氏の所領を含み込む形で,永徳2年の小山義政滅亡後,小山泰朝が小山氏を再興した応永年間以降に作成されたものという小山氏と当荘との関係は未詳南北朝期,当荘は上杉氏の所領となったようで,応安6年4月5日の将軍家(足利義満)御教書によれば,「下総国下幸嶋庄,武蔵国八林郷等之替不足分」として伊豆国大見郷などが上杉能憲に充行われており(上杉家文書1/大日古),これ以前に上杉能憲の所領であった能憲は応安2年10月3日に室町幕府から伊豆国守護職に補任されており(同前),この時能憲に充行われたものかそれ以前の地頭は未詳これ以後,当荘は上杉氏に相伝される上杉能憲は永和2年5月8日当知行所帯一円を嫡子上杉憲方に譲った(同前)応永2年7月24日の将軍家(足利義満)安堵下文によれば,上杉憲方の所領が上杉憲定に相伝され,同日付で伊豆・上野両国守護職が憲方から憲定に譲られている(上杉家文書1/大日古)上杉憲方は応永元年10月24日に死去しており,これ以前に憲方から憲定に譲与されたものであろう応永3年7月23日の管領斯波道将施行状には上杉憲定の所領として「下幸嶋」が見え,当荘は上杉能憲―憲方―憲定と伝領された応永31年5月晦日,上野国守護上杉憲実は「上野国岡本郷内,下総国幸嶋庄弓田郷内田畠在家等」を鶴岡八幡宮に寄進しており(神田孝平氏旧蔵文書/神奈川県史),この時期にも当地は上杉氏の所領となっていたものと思われるおそらく当荘は憲定のあと,憲基―憲実と相伝されたのであろう15世紀後半には当荘は古河公方の御料所となったと思われ,永禄10年5月17日の足利義氏安堵状写によれば,「下幸嶋荘之内若林郷」が田代三喜斎に充行われている(家蔵文書/古河市史)天正2年12月2日の芳春院周興・昌寿連署書状写には「下幸嶋」として22か所が記載されており(喜連川家料所記/古河市史),豊前左衛門尉・芳春院周興など16名に充行われている現在の岩井市に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274244
最終更新日:2009-03-01




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