ケータイ辞書JLogosロゴ 下館城下(近世)


茨城県>下館市

 江戸期〜明治22年の城下名。常陸国真壁郡のうち。江戸期は下館藩の城下町。田中村と西郷谷村が城下町を形成する(新編常陸)。はじめ水谷氏を藩主とした時代の城下町は,田町・金井町・戸外【とげ】町・十軒町【じつけんまち】・新宿【しんじゆく】・前宿・西宿・内宿・門前・新田・別当などで,家数270・人数1,300という。寛永16年徳川光圀の兄松平頼重が入封すると,水戸の城下に倣って新宿は大町,その西を西町とし,新しく荒町を設け,その片側を片町,大町の東は薬師如来にちなんで薬師町と称し,以上を上町【かみまち】と総称した。また台地東部の低所を下町と称し,その南を裏町と命名し,裏町の木戸の外を戸外町と称した。戸外町の東は前藩主水谷氏が植えた桜があったことにちなみ桜町,また勤行川と田中村用水溝に囲まれた地所は河内町の意味で金井町の文字を用いたという。ほかに寛永16年菅谷村の一部を城下の町並地として編入して新町,市野辺村の一部も同様にして柳の大樹にちなみ柳町と称したという。こののち藩主石川総茂の代の享保17年には,大町・西町・荒町・片町・薬師町・両門前・田町・金井町・裏町・桜町・戸外町・田宿・東下り・中横町・下横町・松葉下り・柳町が見え,藩主石川総候の代の延享3年には,大町・西町・荒町・片町・薬師町・両門前・田町・裏町・桜町・柳町・戸外町・金井町が見える。元禄15年の明細帳によれば,中番所4,出口門6,金井口には大橋(土橋)が架かり,金井町には御札場があり,町屋敷数76軒半(うち11軒は伝馬人足役免除の町年寄7人屋敷)。町郷蔵は1か所(2間半×6間)あり,ほかに城米は小川河岸へ付送り,住民は木綿織を行い,市が1か月に4日ずつ立つとある(田宮家文書/下館市史)。城下町の住民には四人組(のち五人組)が制定され,嘉永3年の五人組は26組・154軒(田宮家文書/下館市史)。町方の家数・人数は,元禄11年280軒・1,390人,享保17年320軒・1,600人,文化3年245軒・1,220人,天保5年364軒・1,637人(下館郷土史)。町年寄は,上町・下町のそれぞれ古来十人士が世襲し,藩主への御目見えや名字を名乗ることが許され,諸役地子免許の特権を与えられていた(下館市史)。本陣は下館十人士の1人町年寄中村兵左衛門家が勤め,破格の帯刀が許可されていた。大町には藩校蒙養館があり,寛政5〜6年頃には城下に心学塾有隣堂が創立され,のち富士乃越では医師泉田氏が私塾を始め,門人は300人に上ったという。本陣中村家はすでに元禄年間以前に例えば大和の繰綿を大坂・江戸の荷受問屋を経て購入し,下館周辺および東北地方に販路を開いており,またほかに穀物・木綿・酒・水油・真綿・煙草・茶なども扱う遠隔地商人として台頭していた。しかし商人は,元禄年間〜宝永年間を盛期として次第に性格を変化させ,享保年間からは真岡木綿や結城紬などを扱う買継問屋として経営を維持していった。城下町のうち上町には,中村家が示すように,問屋などの特権的商人が多く居住したのに対して,下町は諸職人・小商人が比較的多く居住したという(同前)。安永5年藩は,大町・下町ともに衰微して諸物価が不安定であることを憂慮し,改めて上町のうち中横町,下町のうち坂下に穀物市場を限定し,問屋株を持つ者たちに独占的に営業を行わせることなどを申し渡している(田宮家文書/下館市史)。天明6年には小貝・勤行両川の大洪水によって,金井町から裏町までが大破し,さらに愛宕裏は40間にわたって堤が決壊したほか,田畑4町7反余が流失し,桜町の道が大きな被害を受けた。同年は大火にも見舞われる惨事となり,天明飢饉の引き金になったという。また天保飢饉のなかでは,天保7年田町の住民21人が困窮者へ施米を行い,翌年には藩も領内の松林を町方に,雑木林を村方に払い下げた(同前)。田町通りと大町通りの北側はすべて城郭および武家屋敷,大町の北端に大手門があり,町屋敷の周辺に社寺境内および門前が散在していた。城内から北へ出る岡芹と西へ出る西下口にそれぞれ門があり,侍屋敷から町人の居住地へ出るところには大手門,足軽屋敷から町へ出る田町口と金井口に門があった。これらの門はいずれも水濠によって外部と隔離されていた。下館城は平山城で天守閣はなかったようである。寛永16年水谷伊勢守勝隆時代の古図によると,武家町・町人町ともに台地上に南北に発達し,下館城は城下北端にあり,東の崖下を流れる勤行川と西の沼を天然の要害とし,本丸・二の丸・三の丸・西城・家老屋敷などは幾重もの空濠とその外側の水濠で囲まれていた。下館城が螺城ともよばれるのはこの空濠・水濠が螺の殻の渦巻に似ていたからである。城下町は城の大手から南へ,台地の上を大町・西町方面へ広がっていったが,これらの町人町も二重に水濠で囲まれていた(下館市史)。寺社は,大町に天台宗清滝寺(現在廃寺)・曹洞宗慶林寺,羽黒権現,西町に時宗蔵福寺,天台宗三鏡院・養泉院・宝勝院,真言宗三蔵院,荒町に天台宗真福寺・浄土宗専称寺,片町に天台宗福泉院・真言宗光徳寺,田町に真言宗宝蔵院,金井町に天台宗極楽寺・妙性院がある。初代藩主水谷氏は下館城の防御のため,定林寺(岡芹村)を城の裏手(搦手)に,妙西寺(門前)を城下町南端の下妻街道に,極楽寺は水戸街道口に,清滝寺は真壁街道にそれぞれ配置したという。明治4年茨城県,同11年真壁郡に所属。明治6年下館小学校創立。明治15年田中村・西郷谷村を合併。同22年1月日本鉄道水戸線が開通し,地内に下館駅設置。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274274
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ