ケータイ辞書JLogosロゴ 白井郷(中世)


茨城県>真壁町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。常陸真壁郡のうち。北を長岡郷に接する。弘安田文に「白井廿丁大」と見え(税所文書/県史料中世),嘉元田文も同数値で記載(所三男氏所蔵文書)。鎌倉期〜南北朝期の当郷の地頭は,真壁一族白井氏であり,寛喜元年の真壁友幹譲状に当郷が見えないことから,すでに庶子白井氏に分割譲与されていたと推測される。一方,当郷には本宗家の所領も存在し,応永16年10月4日,真壁顕幹は「白井のかうのうちこんのはうニ田七反」を「いたゐけ二郎」に譲与している(真壁文書)。応永30年真壁秀幹は,鎌倉公方足利持氏に抵抗したため持氏に所領を没収され(真壁安幹文書/家蔵文書),翌31年10月10日,持氏は「常陸国真壁郡白井郷〈真壁安芸守跡〉」を鹿島神宮に寄進している(鹿島神宮文書/県史料中世)。文安6年8月12日の鹿島大禰宜中臣氏親譲状にも鹿島神領として「常陸国真壁郡内白井郷」と見え(塙不二丸氏所蔵文書/県史料中世),鹿島社領として相伝されたが,応永31年8月3日の宍戸一木満里譲状にも,「まかへこをりの内……白井此内三分一ハ舎兄朝祐知行たり,三分二ハ満里が知行たり」と見え(人見文書/続常陸遺文),当郷は,鹿島神宮,宍戸朝秋・満里によって支配された。永享8年,足利持氏に赦免されて真壁郡を預けられていた真壁朝幹は,享徳5年6月3日某と所務相論の結果,係争地を折半され,永享11年に朝幹に誅伐されたと推測される白井修理亮の闕所地を打渡され(真壁文書/古河市史)孫則幹が白井家を相続し,その子幹兼・幹重は,それぞれ東白井・南白井を称したという(平姓真壁家系)。永禄2年6月1日,真壁久幹は「名字之地廿余郷」を古河公方足利義氏から安堵され,戦国期も真壁氏の支配下にあった(真壁文書/古河市史)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274412
最終更新日:2009-03-01




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