ケータイ辞書JLogosロゴ 竹原郷(中世)


茨城県>美野里町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。常陸国南郡のうち。弘安田文に,「竹原 十五丁」と見え(税所文書/県史料中世),嘉元田文も同数値で記載(所三男氏所蔵文書)。弘安5年7月19日の常陸国留守所下文によれば,「竹原郷給主職事 権禰宜朝親」とあり,鹿島社権禰宜の中臣朝親が当郷の給主職に補任されており,鹿島神領であった(鹿島神宮文書/県史料中世)。治承7年に南郡惣地頭職に補任された下河辺政義は「常陸国下河辺・益戸・高原・小川等之祖」といわれ(佐野松田系図/続群6下),孫の景政は高原(竹原)四郎と称したという(新編常陸)。文保2年3月24日の藤原重政請文案によると,文保年間,総社神主清原師幸が北郡・南郡諸郷の地頭の造営分担を幕府に申請したところ,当郷の地頭藤原重政は,「南郡内於竹原郷者,不及彼役勤仕候」と,造営負担の先例はないという理由で清原の要請を拒否している(常陸国総社宮文書/県史料中世)。なお,文保3年の常陸国総社造営役所地頭等請文目録では,「一通 竹原郷地頭弥七請文」とあり(同前),ここから藤原弥七重政は,貞治4年閏9月14日付の大胡秀能請文に見える「益戸弥七重政」と同一人物と推定され,当郷地頭職は下河辺政義の子孫に相伝され,この時期は益戸氏が保持していた(鹿島神宮文書/県史料中世)。文明2年2月25日,覚真は竹原をはじめ行方郡全部などの旦那を銭18貫文で廊之坊へ売り渡している(潮崎稜威主文書/大日料8-4)。戦国期は,府中の大掾氏の所領であったが,天正14年,江戸重通の攻撃により竹原の砦は落城したという(新編常陸)。同16年2月24日,佐竹・江戸両軍は竹原にて陣容をととのえ,再び大掾氏を攻撃し(安得虎子),竹原は江戸氏の支配下にあったが,同18年,佐竹氏の江戸領制圧により佐竹領となった。文禄元年12月20日の佐竹義宣書状には,「竹原へ山県信濃守申付候而しかと指置,ねんくあいすみ候様ニさいそくいたす可候」と見え(家蔵文書/水戸市史),竹原の領主竹原氏が死去したことを理由に,佐竹氏の直轄領に編成し譜代山県信濃守に預けている。文禄3年の太閤検地を機に茨城郡に属す。文禄5年蔵納帳(秋田県立秋田図書館蔵)に「〈高九百十八石四斗六升 此内百七十六石五斗五升荒〉定物成七拾五貫文 皆納〈山形正左衛門〉竹原」と見え,代官山形正左衛門に支配された。竹原城は,本丸・二の丸・三の丸からなり,本丸・三の丸は円形をなしている。現在,城の外郭の周辺は水田となり,土塁・空濠が残る。また天正年間佐竹氏との戦いで没した大掾氏の将6人の供養のための墓石6基が旧国道筋に残る。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274876
最終更新日:2009-03-01




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