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- 田後駅(古代)とは
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田後駅(古代) 平安期に見える遠田【とおだ】郡の駅名初見は「日本後紀」弘仁3年10月28日の条に「常陸国安侯,河内,石橋,助川,藻嶋,棚島六駅を廃し,さらに小田,雄薩,田後等三駅を建つ」の「田後」であるまず「田後」の訓であるが,「和名抄」上野国郡郷部には,那波郡田後郷があり,田後が「多之利」つまり「たしり」と読まれているから,弘仁3年紀の田後も「たしり」でよいであろう「日本後紀」のここの記事では,小田・雄薩・田後も常陸国のように見えるが,これはおそらく編者の誤りで,「陸奥国小田・雄薩・田後」とすべきものを,常陸国・陸奥国字が似通っているため,後の陸奥国を常陸国と見誤って,陸奥国と冠書するのを省いてしまったものである小田は小田郡,雄薩は意薩とも書いて,これも小田郡の一画と考えられる地であるそれと連続する田後がこれに隣接する地で,遠田郡に後世田尻の地名のあるところから,これを田尻の前身になる古代田尻としての田後と見ることは不当でない遠田郡の遠田という言い方と同じ考えから出た言葉であると考えられる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
田後駅(古代) 平安期に見える駅名常陸国久慈郡のうち「日本後紀」弘仁3年10月癸丑条に「更建小田・雄薩・田後等三駅」と見え,「延喜式」に駅馬2疋を置いたとある現在の日立市田尻町付近という説もあるが(郡郷考・新編常陸),現在の瓜連【うりづら】町下大賀・大宮町下村田あたりに比定する説が有力(地名辞書ほか)それによれば,太平洋岸の蝦夷経営の終了によって助川・藻嶋・棚嶋などの海道の駅の必要価値が低下し,弘仁3年にそれらの駅が廃止となったので,それに代わって,当駅および山田・雄薩両駅が,前年に設置された陵奥国の長有・高野両駅との連絡のために新設されたという(常陸風土記とその社会)前駅は河内【こうち】駅(現水戸市)で,当駅を通り,雄薩駅(現金砂郷町大里・薬谷付近)・山田駅(現水府村松平付近)を経由して,東山道へと連絡した... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」