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- 田中町(近世)とは
「田中町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 田中町(近世) 江戸期の町名弘前城下の武家屋敷地の1つ城郭の東に位置する土淵川以東の徳田町と南横町の間,北柳町の東側にあり,南北に走る町元禄11年の弘前惣御絵図には見えず,宝永2~4年の郭内武家屋敷の郭外移転によって町割りされた享保6年の町割図には西側のみの片側町として町割りがある同20年の町割図では武家屋敷8軒が認められる宝暦9年の町割図には柳町田中町として武家屋敷7軒がある安永4年の弘前都図では田中町と見え,同じく武家屋敷7軒が認められる天明2年の町割図には屋敷割りのみがあり,また文政9年の町割図では北側が御用地とあることから,その間に当町は消滅し,町内の南側は北柳町に組み込まれたと考えられる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中町(近世) 江戸期~明治7年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中町(近世) 江戸期~明治6年の町名県東郡,綾瀬【あやせ】川と元荒川の間の台地に位置する埼玉郡岩槻【いわつき】領のうち岩槻藩領岩槻宿のうちで,岩槻城下9町の1つ渋江町の北,久保宿町の東にある弘化4年の家数49軒・人数199安政5年の町高は89石で,同年1町7反余の新田が開かれた「旧高旧領」では田中村として89石余町の規模は2町19間元代官町・元同心町が当町に属している町内を日光御成街道が通り,北の方に田中口門がある寺院は曹洞宗松竜寺・天台宗成就院・本山派修験大寿院明治4年埼玉県に所属同6年市宿町ほかと合併して岩槻町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中町(近世) 江戸期~明治2年の町名仏光寺通大宮西入2町目の町洛外町続町の1つ宝永2年洛中洛外絵図に見える「宝暦町鑑」によれば,南角に佐々木盛綱の守本尊を安置するという観音堂があるまた天保2年京町絵図細見大成では北側に「郡山ヤシキ」,南側に「岡サキ」屋敷と藩邸が見えるこのうち南側は高辻通までの畑地も含めて,慶応4年京町絵図細見大成では「肥後ヤシキ」が置かれているまた三河岡崎藩邸は大和郡山藩邸地に移っている明治2年,四軒町・寺之前町・西往寺前町・帰命院前町【きみよういんまえちよう】と合併して坊門町となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中町(近世) 江戸期~明治8年の町名高遠【たかとお】町のうち月蔵山麓,板町通りの小路である武家町安政3年の家中調べ(内藤十五世紀)に,数戸の武家屋敷が記される水利に乏しい段丘地にあって,曹洞宗桂泉院の桂水を水源とする湿田が若干あり,耕作されていた町名は,この湿田に由来すると思われる明治8年東高遠町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中町(近世) 江戸期~明治2年の町名本町通田中社前の町東福寺門前十二か町の1つ正徳4年洛外町続家数改帳では家数28(荻野家文書)「宝暦町鑑」に西側に田中社があると記す町名は伏見稲荷大社の境外摂社の田中神社が鎮座することによる明治元年下京【しもぎよう】に編入同2年本町20丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田中町(近世) 江戸期~明治9年の町名田仲町とも書く鶴ケ岡城下のうち城下の東部,内川右岸に位置する町割りは寛永~延宝年間頃と推定される(鶴岡市郷土資料館,大泉掌故)天和年間庄内藩より幕府へ提出された御帳によれば,家数39軒・人数213(雞肋編/県史17)明治9年八間町に合併... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」