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「田町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

田町(近世)


江戸期~明治22年の町名土浦城下のうち土浦城の東に位置する享保年間の土浦城郭図(土浦市立図書館蔵)によれば,町筋は水戸街道の両側に沿って南北にのび,南西は中町,...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7274977]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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田町(近世)

 江戸期~明治22年の町名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期~明治9年の町名中通り南部,阿武隈【あぶくま】川上流沿岸に位置する白河郡のうち白河藩領小峰(白河)城下郭外のうち村高は,古領高長では473石余,「天保郷帳」520石余,「旧高旧領」530石余なお,「天保郷帳」「旧高旧領」には田町村とある城の田町門口にあり城の東側,横町に続く南北長さ243間・幅5間4尺奥州街道沿いの町で,町はずれに仙台・会津両街道から城下への入口にあたる大木戸がある化政期の家数131軒鎮守は大村の鹿島神社ほかに小峰の天神とも称された天満宮があり,寺院は真言宗常法寺町の北側を東流する阿武隈川に架けられた大橋は,長さ34間余・幅1丈余橋の南は田町に属した河原町があり,長さ46間もとは屋敷もある町並みであったが,享和3年の洪水で流失したという川を越えた北は向寺町といい,長さ204間・幅3間2尺,化政期の家数131軒農民・商人が雑居し,屋敷・足軽長屋に続いた町はずれは喰違いの土居があった(白河風土記)明治7年の遠藤家文書によれば,田町村は当町と向寺町が含まれている旧福島県を経て明治9年福島県に所属同年天神町ほか9か町村および学田新田の一部と合併して白河町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期~明治11年の町名江戸期は吉田城下二十四町の1つで,表町のうち吉田城の西,豊川の河岸に位置し,町並みは東西に続き,東は坂下町,西は船町に接する吉田宿伝馬役は伝馬役町および平役町として伝馬と人足を課され,貞享元年には本門70軒,のち伝馬役門43軒で馬7匹,平役門25軒で出人足15人を負担した同5年の家数70,町並み119間2尺,道幅3間2尺正徳2年の吉田惣町差出帳によれば,家数74・人数510,庄屋は惣七郎寛延3年の吉田弐拾四町指出帳では家数76・人数326同年の吉田弐拾四町指出帳書抜では高78石余,出火時出役人足30,大工3・紺屋1・合羽師1,年寄は平六郎(豊橋市史)寛延元年に7軒,同2年には24軒が火災により焼亡宝暦9年の洪水により床上浸水1尺余の被害を受けた文政2年の家数73,天保9年の家数74神社に神明社がある境内には山田宗徧作という庭園がある(豊橋の史跡と文化財)幕末期には平田門下の国学者羽田野敬雄が神主を勤めた明治9年の合併村願書によれば,戸数84・人数361(徳川林政史研究所蔵)同11年湊町の一部となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期~明治9年の町名上田城下の一町城下町の北東部,東の鍛冶町と西の原町を結ぶ町人町で,北は木町・房山村,南は馬場町・大工町と接するただし町域の中央部分は武家屋敷のため,その東部町人町を上田町,西部町人町を下田町とも呼んだ成立はやや遅く,町並が整ったのは享保年間頃ともいう町名の由来は,以前は水田地帯であったことによるという北側に浄土宗浄念寺がある弘化4年の上田城下用水絵図によると,田町中央から北の房山村へ抜ける道があるこの六段小路とも呼ばれる道の中程に柳の井戸が描かれている(上田歴史地図)城下町上田は良質の水が少なく,この柳の井戸と鍛冶町本陽寺の井戸および大神宮の保命水(井戸)が良い水とされ,この良水を売り歩く商売さえあった寛文3年の上田領戸口改(県史近世史料1-1)で,戸数23,人数は男53・女73,奉公人31・出家1の合計158延宝3年の上田御城下差出帳(同前)では,本家22軒・貸家36軒,人数105同7年は,戸数27・人数174(上田市史)明治9年上田町の一部となるなお現在も通称として用いられている...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期の町名豊後国海部【あまべ】郡臼杵【うすき】荘町屋敷村のうち臼杵城下町八町の1つ臼杵市街地西部,臼杵川下流右岸に位置する文禄2年太閤蔵入地,同3年福原直高領,慶長2年太田一吉領,同5年から稲葉臼杵藩領当町は少なくとも寛永4年以後に成立した城下町で,同年11月菊屋町が廃されたあと,同町町年寄役であった筑前屋泊氏が田町成立の時に転宅して,当町の年寄役になったという(役屋先祖書)このことから,もともと町屋敷村の高には入らず,仁王座村の中にあって高は4石7斗余であったという(旧貫史)上記高のうち3石9斗余が堀となり,残る7斗余が最初に町となったのち堀の埋立てが行われると,これも町になったことから当町の高を4石7斗余と記すのが普通だという元文5年の竈数48(同前)嘉永2年の家数は79(臼杵史談)文政7年時青山庄蔵・泊新左衛門の両人が町年寄を勤めた現在の臼杵市大字臼杵のうち,通称田町...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期~明治初期の町名柳川城下の1町城下のうちであるが,町名が示す通り,水田があった「柳河明証図会」には,当町は,「川にそふて松並木の土手あり,此通り正段島につゞく」とあるこの松並木は,江戸期~昭和7,8年,沖端川が外城(郭)の北を西流する堤防沿いにあった同川を下り,有明海に出て,長崎・大坂・江戸へ米・麦・辛子などの年貢を廻送する河港をもった藩蔵の1つとして田町蔵所があった同蔵所には蔵が7棟あり,蔵目付1・蔵役2のほか下役がいた同蔵跡は現在は水田となっているまた,当町の河川敷辺りは,現在は葭野になっており,御蔵浜という元禄年間,外小路(現新外町)にあった浄土真宗大谷派白指山西琳寺を当町の西に移した米蔵の跡地に移転同寺の東側には藩の牢屋があった(柳川の歴史と文化)明治初期筑紫村の一部となる現在の柳川市筑紫町のうち...

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田町(近世)
 江戸期の町名...

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田町(近世)
江戸期~明治22年の町名伊豆国君沢郡のうち狩野川の支流境川中流左岸に位置する東海道三島宿21町の1つ幕府領元治2年の石高105石余,戸数51・人口262(三島町誌稿)また宗門人別取調書上目録によれば慶応3年の石高105石余,戸数52,うち本家35・地借8・店借10,人口229(三島市誌)街道筋の南裏手に位置しているが,東側には韮山代官所三島陣屋があり,西側には定助郷会所がある寛文年間の伝馬役は下り人足3となっている慶長14年朝鮮使節来朝の時,通過にあたって下級随員の宿泊所を久保町寄りに設置神社は楊原神社,寺院は臨済宗楊原寺(楊原神社境内)・臨済宗福聚寺明治元年韮山県,同4年足柄県を経て,同9年静岡県に所属同3年の石高121石余,戸数52・人口211(男96・女115)(三島町誌稿)明治22年三島町の一部となる...

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田町(近世)
江戸期~明治初年の町名諫早【いさはや】市中の1町町役人として別当が置かれていた南目地方をはじめ諫早周辺の農村地帯を相手とした商業・手工業地域で,下町とともに諫早の商業地域の中心を形成した慶応2年の例では当町の順三は反物・荒物・茜・蘇木・明礬・砂糖・小間物座の免許を持ち,翌3年には同じ田町商人の久三ら5人が同様の座株の免許を願い出ている(慶応寅卯年町方聞次所諸控)幕末期の学者・教育者としてまた洋式兵学研究の先駆者として傑出した人物であった福田渭水は当町商家の出身明治初年(2~3年か)に西町の一部(字田町)となるなお,明治11年諫早町1丁目の一部となり,同22年以後は諫早町甲の一部となり,昭和15年までは通称町名として田町の名が存続していた現在の諫早市栄町の一部にあたる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期の町名松代城下の一町で,武家町城下の東部,関屋川に沿って位置する中級・下級武士の屋敷が多かった町名の由来は,最近まで水田が残っていたほど田があったことにちなむ町内は上田町・中田町・下田町・馬場の4町に分かれていた「園柱茶話」によると,馬場は寛文年間頃に馬場があったことにちなむという中田町より上田町に達する東の縦小路を土手下町といい,海津城外構の土手下にあることからの名称であるまたそれより東に3条の縦小路があり,これを外田町ともいうが,郭外であった当町には真田家の菩提寺長国寺や真勝寺・梅翁院などの寺院がある明治4年廃藩置県以後は松代町の一町となり,現在も長野市松代町松代のうちの字名の一つとして田町・下田町がある...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

田町(近世)
江戸期の町名徳山城下の1町新町七丁のうち城下南西部に形成された町人地の中央東側北の武家屋敷との境界をなす桜馬場と南の山陽街道に沿って本町筋と武家地の間に成立した7つの枝町の1つ天保10年再改正と記される徳山城下絵図には糀町の北の東西の通りに太町として当地が見える(徳山市史)寛保元年の「御領内町方目安」によると徳山田町と見え,武家地の下御弓町筋から八正寺門前まで東西1町32間,道幅3間1尺,家数24,うち北側9・南側15,人数は新町七丁で485,火番屋1軒,井戸7か所,うち辻井戸1か所・自分井戸6か所(徳山市史史料)「地下上申」には徳山村の小村・小名に当町の名が見え,法華宗本正寺・山伏教学院がある...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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