ケータイ辞書JLogosロゴ 田見小路(近世〜近代)


茨城県>水戸市

江戸期〜昭和41年の町名江戸期は水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名水戸城の西北に位置する武家町町名は地内に設けられた藩主の別館(田見御殿)から那珂川べりの田を遠望できたことによる「新編常陸」によれば,古くは大坂横宿と称し,文禄元年佐竹義宣が太田から当地へ八幡宮を移してからは八幡小路とよばれたが,藩主徳川宗翰の時に地内の若村・伊東・岡村・大河内の4氏の宅地を収めて別館(貴楽亭)を築き,それを宝暦11年田見御殿と称したことにより,町名も田見小路とされた同書によると,八幡宮が当地にあった時は町の西に社地があり,六供僧(別当真言宗光明院の末寺の不動院・慈眼院・持宝院・金乗院・東光院)も西に居住したが,八幡宮は元禄7年上那珂西村に移され,その跡に矢場・馬場などが設けられた「水府地理温故録」によれば,正徳2年朱舜水を祀る舜水祠堂が当地に造立され,明和年間御殿が火災で類焼して,御医師原玄興によって朝鮮人参などの薬草が植えられている地内に寛政11年末5代官を廃して郡奉行を御所務方として役所が設けられ,のち御所務方が廃されて享和元年冬に6郡制から11郡制となった時には浜田組・常葉組の役所が設置されたなお同書によると,藩主頼房の頃当町に居住した藩士岩本越中は武芸の達人で門弟も多かったが切支丹として処刑されたというまた,今の大坂は七曲り坂を改称したもので,本来の大坂は肥田家・舜水堂守・青山家の間の坂で,かつては水打(水アビセ)の行われた所といい,大坂の下に風呂があってそのよごれを洗ったと伝える毎年正月21日には当町の馬場と下町の馬場が交替で藩主・藩士の馬を集めて訓練したという(水戸の町名)田見小路崖下に小沢の滝とよぶ湧水があり,笠原水道・小場江などを手掛けた永田円水の仕事と伝える寛政9年の武家屋敷数20(同前)幕末期,水戸を代表する学者青山一門は当地に居住した青山搖渓は舜水堂の堂守であった搖渓の子,雲竜青山延于,その長男佩弦青山延光,次男佐藤松渓,三男佐々木柳庵,四男鉄槍青山延寿,延光の長男雷巌青山延年,延寿の孫山川菊栄らである明治期になってから,元青山家の屋敷地に日本の幼稚園保母第1号で大町の県立高等女学校の教師をした豊田芙雄が住んでいた昭和25年の世帯130・人口515(同前)昭和41年北見町・大町1〜3丁目となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7274995
最終更新日:2009-03-01




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