ケータイ辞書JLogosロゴ 土浦郷(中世)


茨城県>土浦市

 鎌倉期から見える郷名。常陸国信太【しだ】荘のうち。元徳元年11月日の地頭代良円結解状に「常陸国信太上条内……塙,古来村,烏山,弘戸,土浦」と見え,同年の史料にも「常陸国信太上条内弘戸・土浦・小池三ケ郷」とある(東寺古文零聚)。鎌倉末期に地頭が東寺への年貢納入を対捍したため,元徳元年に地頭の代官である良円が,結解状を作成し,前後の年貢の収支決算を行っている。永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写に「信太庄土浦郷若泉三郎」と見え(続常陸遺文),若泉三郎という富有仁がいた。土浦城の構築者で,のち菅谷勝貞に滅ぼされた土浦城主若泉五郎右衛門は,若泉三郎の子孫とも伝える(土浦市史)。その後小田氏の勢力が当地方にも及び,明応4年頃と推定される10月24日の真楽軒充小田政治書状写に「昨日廿三顕家当城へ可被打入之義必定……老父事者則永奥院へ被相移……然者向土浦可調義之段各調談候」と見え(真壁安幹文書/家蔵文書),小田政治が真壁氏の加勢を得て土浦を攻撃しようとしている。戦国期土浦には菅谷氏が拠点をおき,小田氏に属して佐竹氏の南下策に対抗していたようである。永禄6年と推定される5月14日の芹沢定幹充佐竹義昭書状に「此度向土浦,次郎令出馬之処」と見え(芹沢文書/県史料中世),佐竹義重が土浦を攻めることを伝えている。上杉謙信が小田氏治を攻めた永禄7年の状況を示すと思われる年月日未詳の小田氏治味方注文には「つちうら,すけのやつのかみ……さたけの陣所,まなへのたい,つちうらきんへん」と見え(上杉家文書3/大日古),土浦には菅谷摂津守がおり,攻め手の佐竹義昭方の陣所が真鍋台および土浦近辺におかれている。この合戦に関連する戦後処理と思われる永禄9年と推定される5月21日の小田氏治の家臣菅谷全久が上杉謙信の家臣山吉豊守に提出した注文に「常陸国土浦城主小田氏治御退治以後,家老菅谷摂津守入道致降参,氏治領地書立注進申候事」として,4か郷,1万3,200疋分の小田氏治領地を書き上げている(歴代古案/越佐史料)。「烟田旧記」の永禄12年11月23日条に「小田悉く御はいぐん各打死候て,けつく廿四土浦へ御のけ候,そのまゝ佐竹殿押詰小田御陣候」と見える(続常陸遺文/大日料10-3)。この合戦については,「菅谷氏系図」に,「元亀元年,太田三楽・真壁道夢,常州小田の城をせむ……味方利をうしなひ,小田の城没落す,時に範政がはからひをもって,氏治をして土浦の城へ入しめて」とも見える(寛永諸家系図伝)。小田氏治は本拠地小田城を佐竹氏勢力に奪われたため,菅谷氏の援助を受け土浦城に拠点を移している。さらに「烟田旧記」の永禄13年正月12日条には,「信田殿,つちうらにてしやうかい,その日小田うち治様きなまりへ打入被成候」と見え,氏治は信太氏を滅ぼし木田余城にも入城している(続常陸遺文/大日料10-3)。こののち小田氏治は,小田城奪回をめぐって佐竹氏勢力と戦いを展開する。今度は上杉氏に味方した土浦城の小田氏治を攻めるため,真壁氏の出陣を要請した元亀2年と推定される7月29日の真壁式部大夫充佐竹義重書状写に,「今月廿九日出馬,来月片野へ著陣,翌日小田へ打著,無程向土浦可及備候」と見える(佐竹文書/越佐史料)。また,天正年間と推定される年未詳7月23日井田因幡守充北条氏政書状写に,「土浦迄出陣尤ニ候」と見え(御用所本),氏政は南下する佐竹氏に対抗し,岡見甚内を守るために上総の井田氏に土浦まで出陣し,加勢するよう要請しており,小田氏治はこの頃には小田原北条氏に味方するようになったものと推測される。天正18年と推定される年月日未詳の関東八州諸城覚書には,「土浦の城」「小田氏晴分城……一,土浦 菅屋左衛門大夫」と見える(毛利家文書4/大日古)。天正18年小田氏は滅亡し,土浦は結城秀康の所領に組み込まれた。文禄4年の太閤検地を機に新治【にいはり】郡に属す。同年3月に結城氏の家臣と思われる青木氏ほか3名によって,当地の検地帳が作成されている(土浦市史編集資料)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7275097
最終更新日:2009-03-01




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