ケータイ辞書JLogosロゴ 土浦町(近世)


茨城県>土浦市

 江戸期〜明治22年の町名。常陸国新治郡のうち。土浦藩の城下町および水戸街道土浦宿を形成。東崎町分の文禄4年3月・寛永6年10月の検地帳ではともに信太庄土浦村と見え(土浦市史編集資料),土浦村に形成された城下町。城下は東部一帯の総称東崎町,南西部一帯の総称中城町,西・北部一帯の武家町から構成される。はじめ結城氏領,慶長6年土浦藩領,元和3年幕府領を経て,同4年からは再び土浦藩領。高は1,421石余。「旧高簿」では高1,421石余。慶長6年結城秀康が越前北の庄(福井)へ移封するまでは結城氏の支城土浦城の城下であったが,次に入封した松平氏は本格的な城下町の造成に着手した。土浦城の二之丸に中門・仕切門(黒門),田宿口に南門,田中口に西門を設け,また藩士の居住地として足軽町(のち鷹匠町)・西町(のち内西町)を造成して城の内外の防備を固め,慶長9年には幕府代官頭大久保長安の命によって水戸街道を城下に貫通させ,その沿道に田宿町・中城町・本町・中町・田町・横町を造成し,また西門の門前には門前百姓の家屋がたちならび,のち西門町となった。慶長18年には幕府によって桜川に銭亀橋,南門外の堀川に簀子【すのこ】橋,旧桜川に楼川橋のいわゆる三橋が架設された。簀子橋は竹の簀子で作られた橋で非常の場合は撤去できたという。藩主西尾氏の代の元和6〜7年には西塁上の八幡社を滝泉寺に移して東西塁上に2層の矢倉を築き,東塁上に鐘楼を建て朝夕の時を知らせた。同8年には大手(追手)門を楼門に改造した。同年11月2代将軍秀忠は等覚寺の客殿で休息し鷹狩りを行ったと伝える。藩主朽木氏の代の明暦2年には城門を瓦葺とし入母屋造り単層の櫓門を改築して太鼓櫓とした。さらに本丸の土塀屋根を瓦葺とし,本丸から北西にあたる三之丸に設けた焔硝庫と武器庫を改造するなどして城郭の美観を整えた。この時西町のうち外郭西部にあった町屋を田宿町裏(北)に移し裏町とし,その跡に士卒の長屋を造り足軽町に住んでいた士卒を移住させ足軽町(のち外西町)を形成し,旧足軽町には鷹匠を移住させ鷹匠町とした。田宿町と足軽町の境には杭違いという防御施設が設けられた。ほかに寛文元年・同4年・同8年の大火の教訓から外記門・搦手門の屋根も瓦葺にされたという。藩主土屋氏の代には藩士の増加に対応するため,寛文9年鉄砲宿前の湿地を埋め立てるため,真鍋村のねずみ坂から土砂を運んで新郭を設け築地町を造成した。延宝8年大風のため町家100軒が倒壊。藩主松平氏は土浦城の防御施設の不備を幕府に申し立て,貞享元年正月から同3年3月まで本丸の東方に新郭(外丸)を設け,また土塁を築き城郭を拡張した。同時に水戸街道南門外の簀子橋際に縦横38間・しとみ7間半の角馬出し(枡形)を築き,北門外真鍋口にS字型馬出しを築いて城下町の防備を固めた。はじめ堀川を隔てた二之丸・三之丸の東部を囲む内郭を前川町と総称していたが,のち地内北部は代官町として分離した。貞享4年には二之丸北東部の内郭を亀井曲輪,代官町の南半分を多計曲輪,西町のうち内郭部分を西曲輪(のち内西町),三之丸南部の内郭を巽曲輪,鷹匠町の南半分を勝軍木【ぬるで】曲輪とそれぞれ名付け,中城町を中条町,田宿町を多宿町と改称したという。藩主土屋氏の代には土浦城の二之丸・三之丸の土居を修理し,土居の上に新たに築柵が幕府から許可された。享保8年3月には城下立田郭に武家屋敷を設けることが許可され,のち立田町となり,この頃までに鷹匠町・内西町・外西町・築地町・同心町などの武家町が出揃った。一方水戸街道の交通量の増大,霞ケ浦を通じた桜川・旧桜川・田町川の水運の著しい発達により,享保12年には田宿町南門外の水戸街道の松並木を伐採して大町を造成し,また桜川の大町河岸,河口から通じる水路によって桜川流域や霞ケ浦沿岸諸村を取引圏とする穀物・肥料などの問屋が軒を並べるようになり,旧桜川河口河岸の左岸にも享保12年川口町ができ,船宿・船問屋・旅籠がたちならぶようになった。城下のうち町人の人口は,享保6年頃2,280,元文5年2,401,天明6年3,988,天保10年5,098(おだまき/土浦市史編集資料)。はやくから中城町の駒市(3月11〜15日),東崎市(10月21〜25日)が立ち,駒市の取引頭数は700頭に及んだといい,東崎市では会津の椀,小間物,木綿などの日常品を主として諸国の商人が集まったという。享保11年からは真鍋と銭亀橋の市が創設され,十月大市・新大市として近在諸村から人々が集まり,また真鍋口では正月初市が行われるなどして,この頃までには城下町が一応完成し,陸上・水上交通の発達とともに商業都市としての性格も帯びてきた。江戸川の開削と利根川の銚子口への河道の付け替えによって霞ケ浦・北浦・利根川・江戸川を結ぶ内陸水路が開け,江戸との往来が激しくなり,安永2年の争論に見える中城町船問屋長左衛門ほか3名,東崎町船問屋清兵衛ほか5名などは,いずれも高瀬船を所持し,河口に河岸をもって回漕業を行っていたとみられる。当時江戸までの航程は直通で3泊4日ほどで,江戸へは主に年貢米・町人米・醤油・酒・油・薪炭・木材・瓦などが,江戸からは〆粕・干鰯・塩・小間物・呉服などが送られていた。このように土浦は水陸とも交通の要となり,特に船運を通して霞ケ浦湖畔の諸村からの物資の集散地として発達し,良質の小麦・大豆によって醤油醸造業が,菜種・胡麻から製油業が発展する条件ともなった。土浦の醤油は一説に藩主土屋政直の保護のもと国分宗山(大国屋勘兵衛)が田宿町で創業したのがはじまりといい,安政5年頃の大国屋の造石高は3,000石,それに次ぐ色川家は1,200石という。水戸街道土浦宿としても栄え,本陣は本町の山口家・大塚家,問屋は中城町の入江家などで,いずれも町名主などを兼帯。安永8年の定助郷は金田村ほか17か村(久松家文書/土浦市史)。土浦宿は水戸街道沿いの旅籠と田町川沿いや川口町の船宿の両方に分かれていた。元禄年間頃からは上野桐生・武蔵八王子・甲斐郡内の絹商人が,享保年間頃からは京都の帯売商人が土浦城下に現れ,行商人などと相俟って商人宿が形成されていったという。こうして土浦城下は商業都市として変化をとげ,大町から横町に至る水戸街道沿いには本陣・問屋場・商人宿・茶屋・穀屋・油屋・呉服屋・紙屋・筆墨屋・薪炭屋・小間物屋などの商家がたちならび,商家も農間渡世から次第に専業化が進行した。城下の質屋は享保10年頃に中城町の笹屋が開業したのがはじまりと伝えるが(石塚家文書/土浦市史編集資料),安政2年には中城町17軒,東崎町10軒となり,質屋仲間を結成していた。ただし,いずれも専業ではなく,酒・足袋地・白綿・穀物・綿・糸・絞油・油・醤油・粕・干鰯・筆墨などの業種を兼業していた。安政4年には仲町の間原氏が講元となり31名で頼母子講を結成して資金の融通を図っている。城下町方の支配は,少なくとも貞享4年までには中城町は南町奉行,東崎町は北町奉行の管轄とされ,それぞれの町には町名主・町年寄・百姓代が設けられていた。たとえば中城町では給米が名主14俵・年寄7俵とされ,ほとんどが草分け的な家々の互選で世襲的に任命されており,本陣・問屋などの兼帯が通例であった。城下町には町人だけではなく,町屋裏の田畑を耕作する百姓も居住していたとみられる。江戸期を通じた火災は記録に残るだけでも29回に及び,元禄4年の大火は大手前紺屋半兵衛方から出火して城下はことごとく焼失した。城下の防火体制の整備は寛文年間藩主土屋数直が江戸町火消しの制度に倣い火防人足の制度を設けてからで,次いで元禄年間に藩主土屋政直が全町とも1軒1名,男子18歳以上を若衆と称し,火防人足に組み入れた。享保20年10月には藩主土屋篤直が武家方・町方の持場と役目を明示し,城下の各所に消防用具を常備した。天保7年には各町村の出火時の出動人数・持場が改正され,町内ごとに纏が置かれた。安政年間には町内防火組の名称が,大町は「大組」,田宿町は「よ組」,中城町は「は組」,本町は「い組」,田町は「た組」,横町は「ろ組」,東崎町は「と組」,中町は「な組」,西門町は「に組」と改称された。各町は出火の際には名称のはいった纏を先頭に消火作業に従事したという(土浦市史・新編常陸)。このほか幕末期までに西門町続きの田中村地内に田中町が成立し,町並地として城下に編入されたとみられる。明治5年新治裁判所開設。明治8年茨城県,同11年新治郡に所属。同8年旧城内裏門口に警察出張所が置かれ,同10年土浦警察署と改称。同11年第五十国立銀行開行。同年新治郡役所開設,同17年全焼したが,近代的な木造洋風の二階建に新築。明治14年土浦魚合資会社が設立され,銚子から輸送される魚類を「セリ」にかける市場が開かれた。同16年オランダの万国博覧会に出品されたことにより,土浦の醤油の名が広まった。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7275098
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ