ケータイ辞書JLogosロゴ 取手村(近世)


茨城県>取手市

 江戸期〜明治18年の村名。下総国相馬郡のうち。取手町・取手宿ともいう。寛永19年佐倉藩領,慶安4年守谷藩領,寛文8年関宿藩領を経て,宝永3年からは旗本建部氏の知行。「寛文朱印留」では大鹿取出村と見え,はじめ大鹿村と1村であったが,延宝2年の検地を契機として村高708石余を2村で折半して分村したという。延宝2年の検地帳によれば,反別は田14町余・畑38町余,名請人88・屋敷持64名(染野家文書/取手市史)。村高は,「元禄郷帳」354石余,「天保郷帳」355石余,「旧高簿」では取手宿と見え354石余。寛文6年利根川端から49間北西の台地南側の低地に移住して新町を形成した。また延宝元年には利根川の洪水から守るために囲堤が築造され,元禄10年までには大鹿村民も移住した。代々名主を勤めた染野伊右衛門(藤左衛門)家は,天和年間から水戸家の本陣御用を勤め,さらに付近に問屋場も設置され水戸街道取手宿が整備されていった。取手新町続きにはのち大鹿新町も形成され,両町が取手宿を構成したが,両者を相宿とするか,取手を本宿,大鹿を加宿とするかをめぐって争論が続発した。当初人馬の継立は,宿内部で担当し,近隣村々からの助人馬徴発は臨時的なものであったが,寛延2年には定助郷23か村が指定されて宿の定立人馬は10人・10疋となった。しかし江戸中期以降次第に人馬の需要が増大したため,その負担をめぐる宿と助郷村の争論が幕末に至るまで絶えることがなかった。当村の渡しは取手・大鹿の両新町の形成のたびに移転したが,最終的には大鹿村地内となった。当村の河岸は村請で経営が行われ,元禄3年・安永3年の河岸吟味にも書き上げられている。寛保3年の流作場新田検地では畑16町余が反高場として打ち出された(染野家文書/取手市史)。宝永3年の「取手町御改覚帳」では家数133(うち本百姓51・水呑百姓30・借家52),人数580,商人は鍋屋1・菓子屋1・饂飩屋1,干鰯・塩・油を販売する者23,職人は鍛冶2・石切2・酒屋2,ほかに600俵積み高瀬船は7艘あり,所持者は6人。渡世は,男は耕作または往還稼,女は着料として木綿などを織るという(同前)。天和2年からは4・9の六斎市が開設されたと伝える。寺社は,天台宗西勝寺(西生寺・西照寺)・浄土宗念仏院・牛頭天王社(現八坂神社)。念仏院は染野藤左衛門の寄進により創建。牛頭天王社は寛永3年の創建と伝え,別当は西勝寺。国学者,歌人として著名な沢近嶺は,天保9年に没した油屋与兵衛。明治7年の「市場取調書上」によれば,正月14日には穀市がたち,米・雑穀を扱い,暮れの12月24,29日は荒物・干魚類の売買が行われたという。明治8年茨城県,同11年北相馬郡に所属。明治3年の物産は,米312俵・麦145俵・小麦125俵・大豆145俵・醤油150石。同5年郵便取扱所設置。同6年西勝寺境内に仮校舎を設け里仁小学校創設。明治18年大鹿村を合併し,取手駅と改称。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7275345
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ