ケータイ辞書JLogosロゴ 長岡郷(中世)


茨城県>真壁町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。常陸国真壁郡のうち。北は南小幡郷,南は白井郷に接する。弘安田文に,「長岡十五丁二段六十歩」と見え(税所文書/県史料中世),嘉元田文も同数値で記載(所三男氏所蔵文書)。真壁一族の長岡氏の所領であり,興国元年7月の長岡妙幹譲状に,「惣郡国香以来数代相伝之後,曽祖父真壁弥六実幹〈改国長法名大円〉令伝領当郷之条,仁治三年十二月十四日安堵御下文明鏡也」と見え,初代国長は,仁治3年に安堵の下文を得たという(真壁長岡文書/大日料6-6)。寛喜元年7月19日の真壁友幹(本宗)から時幹への譲状に当郷は見えず(真壁文書/鎌遺3848),実幹の分家もこの頃と推測される。長岡氏は現在の堀之内に居館を構え,当郷は頼幹・政光へと伝領された。徳治元年10月17日,政光は当郷のうち「壱町在家壱宇」を吉田頼幹へ,正和元年11月14日にも「壱町壱段在家弐宇」を土師泰胤へ売却している。元徳4年の真壁政光後家尼妙心代頼円申状などによると,政光は,元徳元年9月,「無幹政男子者宣政可知行彼跡,無宣政男子者,以此分幹政可知行之,皆以為一腹之上者,妙心一期之間可知行之」という置文を認めて死去したという(真壁長岡文書)。ところが翌2年嫡子幹政も死去すると,幹政の後家本照は同年閏6月の幹政譲状を論拠に「幹政遺領長岡郷内田三町在家三宇堀内山野半分」を妙心と宣政が押領していると幕府に訴えたため,幕府は,翌3年,本照に下地を打渡すことを命じた。しかし妙心側は政光の置文を論拠に下地に引き渡しを拒否し,所務相論に及んでいる(真壁長岡文書/結城市史)。幕府滅亡後,宣政は建武政権に属し,建武2年正月18日,田1町7反などを弟の妙幹に譲与している。ところが延元2年,宣政は足利方に転じたため,妙心は「なかおかのかうちとうしき(長岡郷地頭職)」を四男の妙幹へ譲与した(真壁長岡文書)。興国元年7月,妙幹は,当郷を嫡子慶乕丸へ譲与し,このうち田1町在家1宇は,女子松若御前に(真壁長岡文書/大日料6-6),また文和3年には,「たうかう(当郷)の内田在家」をまん寿丸母に譲与している。明徳2年10月日の長岡但馬入道聖亨代政長申状によると,至徳4年4月,長岡聖亨は,真壁一族安部田千代松丸と,古尾谷肥後守の「喧嘩」の際,安部田氏に合力したかどで所領を没収され,「欲早被経御沙汰預条々御糺明任無咎之旨,蒙御裁許成安堵之思常陸国真壁郡長岡郷事」と事実無根を主張し,当郷の安堵を要求している(真壁長岡文書)。この聖亨は,妙幹と同一人物か否かは未詳だが,政長は,聖亨の子息と推測され,応永5年正月16日,「めうかんさうてんのしりやう(妙幹相伝の私領)」として,田1町6反ほかを子息いぬほうし丸に譲与している(真壁長岡文書/大日料7-3)。またこのことから,当郷は再び長岡氏に安堵されたと思われる。応永28年6月18日には,幹秀から妙幹相伝の私領として2町8反ほかが子息松王丸に譲与されているが,この譲与地は,応永5年の譲与地とほぼ一致することから,犬法師丸は幹秀と推測される。この場合,譲状に見える水田の田積は,田文の登録田数と比較しても2割に満たず,また幹秀は,応永24年の軍忠状に「真壁長岡古宇田大炊助幹秀」と記し,幹秀譲状に「こうたのほりのうちまへのはたけ」が含まれていることからすると,この幹秀は,古宇田堀の内(現在地未詳)に居住し,古宇田を名字として分家していたことが知られる。なお政長嫡流については未詳(真壁長岡文書)。戦国期も,長岡・古宇田氏は,真壁家臣団として存在した(真壁旧伝記)。また,真壁長岡文書に「たいしのこんけん」「ゑんきやうし」「ちさうたう」などが見えるが,大師権現とは三枝祇【さえぐさくにつがみ】神社(加波山神社の里宮)のことと思われ,円鏡寺は排仏毀釈の時まで神社の西,字北坪の東端にあったといわれ,また神社境内に近世中期まで地蔵堂があったという。天正18年,豊臣政権のもとで真壁領は佐竹領に編成された。慶長2年4月27日の常陸国真壁郡麦田検地帳に「長岡村」は,下田4畝4歩,定納1斗3升7合(3分の1)と見える(佐竹家蔵古文書)。これは豊臣政権の指令に基づいて佐竹義宣が実施した検地であり,裏作が行われていた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7275407
最終更新日:2009-03-01




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