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- 長町(近世~近代)とは
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![]() | 長町(近世~近代) 江戸期~昭和40年の町名江戸期は盛岡城下の一町町人地文化9年~幕末までは長イ町【ながいちよう】と称した城西地区に属し,北上川左岸の東に位置する町名の由来は,城下で最長の町筋であったことによると思われる盛岡藩が幕府に届け出た盛岡二十三町の1つ天明8年の家数203・人数894(邦内郷村志)町の規模は6町程(盛岡砂子)材木町から上田に通ずる南北に走る道筋の街路で,材木町側からは上りになっていたので駈上坂の称がある成立の年代は不明で,寛永盛岡図には見えず,慶長4年までの間に成立したと思われる江戸期には武士・医師・僧侶・山伏などの未決犯罪人を牢居させる揚り屋があった自然山天福院という修験の寺があり,境内に幸田稲荷社があった天福院はその後廃寺となった寛政11年長町の若者25人から消防を勤めたいとの願い出があり,藩では15貫文の補助を与えてこれを許可した(南部史要)これが盛岡の町方消防組のはじめである寛延元年長町の長助宅から火事がおこり城下の551軒を焼失する大火となり,安永7年の大火でも当町が類焼した明治8年の戸数204(盛岡市史)明治4年仁王村の字名,同22年盛岡市仁王の字名,昭和20年からは盛岡市の町名となる同26年の世帯数303・人口1,543(男765・女778)同39・40年長田町となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」