ケータイ辞書JLogosロゴ 長谷村(近世)


茨城県>岩井市

 江戸期〜明治22年の村名。下総国猿島【さしま】郡のうち。関宿藩領。寛文5年の水帳では高657石余・反別91町歩。村高は,「元禄郷帳」652石余,「天保郷帳」670石余,「旧高簿」692石余,ほかに長谷村新田7石余,「旧高旧領」670石余。鹿狩の勢子は享保12年・寛政7年・嘉永2年ともに出役。助郷は,将軍日光社参の享保10年・同12年・天保14年に日光東街道の宿々に勤め,宝暦2年は取手宿の代助郷,文化10年から10年間は古河宿に人馬を出す。慶応4年会津出兵に伴い新政府軍の送迎のため日光街道の宿々に人馬を出した。享和年間から文化5年まで利根川の川床浚い,天保13年は千間堤(長谷〜長須間)普請,嘉永3年は小山高台繰抜普請に人夫を出し,翌4年の同逆留普請には394人を出す(上出島真中家文書)。慶応2年2月当村片神辺【かたしべ】の名残川土手普請を担当していた代官佐藤重次郎が人夫を酷使したため打ち殺され,首謀者らが逃亡するという一揆があった。寺社は,真言宗長谷寺・天台宗来迎寺・香取神社。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年中川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7275604
最終更新日:2009-03-01




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