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「馬口労町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
馬口労町(近世~近代)
江戸期~昭和43年の町名江戸期はもと馬喰町と書き(新編常陸),水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名水戸城の北西に位置...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7275959]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 馬口労町(近世~近代) 江戸期~昭和42年の町名久保田馬口労町・秋田馬口労町ともいった江戸期は出羽国秋田郡のうち秋田藩領久保田城下町の1つ成立は寛永6年,寺内にあった馬口労町が久保田に移されたことに始まる(田崎御物頭勤中日記)寛永8年4月に鍛冶【かじ】町から馬口労町までを割直したので,その後に整備された町と考えられる久保田外町【とまち】の南部,北は酒田町・新城【しんじよう】町・室【むろ】町,南は上川口に隣接成立当初から馬市が開かれ,また羽州街道であったところから寛永13年に伝馬役を仰せつけられ,同年,伝馬町と改名,以後,伝馬役を負担した寛永8年6月の堀普請の人足割当(家表4間口に付2人足1人宛)では馬口労町肝煎孫助扱い分として48人が割り当てられた寛文3年の間数44.5間・家数61戸馬喰衆と人足の出入が盛んなことから天和2年に町人・農民の宿泊の指定を受けた享保19年の火災で52戸焼失慶長7年建立の稲荷神社があった明治4年から秋田町の町名同11年南秋田郡に所属同22年秋田市の町名となる明治9年に平沢善吉が切手売下人に指定され上通町と当町に県内初の郵便差入柱函(ポスト)ができ,同33年7月26日には受取所,同38年秋田馬喰町局と改称,同43年電話開通明治15年の市場調べでは当町は夜市として種・香花類を売り,市日は旧7月13日の夜,お盆の夜市があったまた駒場糶場として2歳牛馬の開市日6月11~17日,8月18~22日,「景悦,頭数増加するも価格減少せり」とある同38年の市場一覧によれば,陰暦7月12日草花・果物の市を認めている同17年の戸長調べでは馬口労町ほか16町の戸長役場があった翌年の戸数は125(秋田町字分戸数調),同26年巡査派出所が設置された同36年の蕗ラムネ製造合資会社,同42年合名会社平沢商店,同年創業の米穀薪炭を取り扱う合名会社登利屋商店がある(商事会社一覧/旧秋田県史)大正13年の「秋田市統計一覧」によると従業員10名以上の企業に平沢足袋工場(21名)がある住居表示実施により昭和40年旭南【きよくなん】1~3丁目,同42年楢山登【ならやまのぼり】町の各一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 馬口労町(近世~近代) 江戸期~昭和41年の町名馬喰町とも書く明治22年頃一時期米沢を冠称江戸期は米沢城下のうちで町人町の1つ明治22年からは米沢市の町名米沢城下の南部に位置する「米府鹿子」には米沢城下のうち軍役が掛けられる15町の1つ享保10年の町方屋敷数書上帳(県史16)によれば長さ1町34間・道幅6間4尺,家数は本屋33軒・名子2軒・浄徳寺名子1軒,小路1筋町名の由来でもある馬市開始は伊達氏時代からというが,慶安4年に定められた馬市開設日によると,当町は6月3日から6月19日までとなっているしかし後年開催期間は大体1か月位となり,消滅寸前の明治10年頃は半月位になった馬市は当町の道一杯で開かれ,この間は道路に川溝が掘られていない馬市の開催が近づくと,仙台(宮城県)・新庄などから馬喰が馬を引いて集まり,仲買人は越後や遠く関東からも入り込んできた当町から南町にかけては民家の大部分が馬喰たちの宿になり,馬市で1年間の暮しをたてたという(町内めぐり)弘化3年の検地帳では,民家約30軒,うち茶屋2・酒屋1・たばこ屋12・くだもの屋2・飴屋1・穀屋1・屋根葺き1など当町南の突き当たりに市神があった地内の一宮神社は出羽一宮大明神と称された古社で,置賜の総鎮守であった(町内めぐり)が,明治20年の火災により元東馬口労町に移転した明治11年の一覧全図では,反別1町5反余,戸数29・人口152,郷社一宮神社がある昭和41年城南4丁目・本町1丁目・太田町3丁目の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」