平磯村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。常陸国那珂郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」751石余,「元禄郷帳」869石余,「天保郷帳」1,090石余,「旧高簿」999石余,「旧高旧領」1,000石余。「水府志料」によれば浜田組に属し,戸数364,村の規模は東西7町・南北34町余。漁業中心の村で,古くは岡の上に住んでいたが,漁業を生業とするため海岸に移ったという。漁獲物値段の20分の1を藩に納める廿分一役は明暦3年から実施され,元禄元年の当村の納税は26両1分鐚819文(水戸市史)。鯨漁の分一は,正徳5年の御達しによれば,沖で漂流する鯨を切取った場合は半分を公納,寄鯨は3分の1,流鯨は4分の1公納であった。漁師が海上において住居を知る目あてとして三ツ塚があった。当村は湊村と並んで御制札場に指定され,汐がよいため塩湯治に効験があるとされ,茶店・旅宿もできてにぎわった。久慈郡にある静明神が当村の磯崎へ出社する時は,領内および他領からも供養に人々が押しかけるため,田畑を荒らしたり人家への乱入などの事件が生じた。このため文化元年八田郡宰白石又衛門の提案で「風流祭」となり,人家や田畑への害を防ぐため出社を隔年とし,4月1日磯出の折には通過する村々が決められた。また4月9日には,長砂村(3疋)・高野村(2疋)・須和間村(1疋)から出した6疋の馬を,村松村から磯前の酒列明神へ向けて駆けさせ,豊凶・魚漁の有無を占って勝負する競馬を行った。寛政3年酒列明神の北に建てられた小亭は水戸藩主の游息地で,比観亭とよばれた。当地産の石は磯崎石・胡摩壇石・胎内石・長寿石・獅子石などの名で知られ,石工が市中に売り歩いた。天明飢饉では当村に疫病が蔓延し,死亡者は315人(国用秘録)。天狗党の乱では,当村も戦闘に巻き込まれ,慶応4年尊攘派が京都で勝利し,武田金次郎一派が帰藩する際,村内の湊商人に軍用金1,000両が割り当てられた。寺社は,磯崎酒列明神・津明神・一向宗聴法寺(新編常陸)。明治6年8月平磯小学校開校。同20年漁業組合設立。明治4年茨城県,同11年那珂郡に所属。同19年六ケ新田の一部を編入。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7276282
最終更新日:2009-03-01