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- 平塚郷(中世)とは
「平塚郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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平塚郷(中世) 鎌倉期から見える郷名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平塚郷(中世) 戦国期に見える郷村名北区平塚神社を中心として,田端【たばた】・上中里【かみなかざと】・西が原【にしがはら】を含む地域と推定鎌倉時代以来,豊嶋氏の本拠地で以後の一族発展の出発地であった文明9年4月豊嶋泰明のこもる平塚城を太田道灌が攻撃した(鎌倉大草紙)平塚城は城官寺とも西原舟山ともいわれるが確証はない天文17年の「としま名字のかき立」(米良文書)に豊嶋一族として「平つかぶんご殿」の名が見える小田原北条氏治下では,江戸衆太田康資の所領として平塚本郷(北区上中里)30貫文,平塚藤右衛門・平塚内西原20貫文などがあったまた葛西【かさい】様(古河公方足利義氏)の直轄領が平塚に121貫500文あった(役帳)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平塚郷(中世) 南北朝期~室町期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平塚郷(中世) 南北朝期~室町期に見える郷名薬師寺荘のうち明徳2年9月8日の鎌倉公方足利氏満寄進状に「奉寄 名越別願寺 下野国薬師寺庄半分〈除福田・平塚両郷,逸見中務大輔寄進地〉事,右為当寺領,所令寄附也」と見え,足利氏満は福田・平塚両郷を除く薬師寺荘半分を鎌倉の別願寺に安堵した(別願寺文書/県史中世2)これ以後,薬師寺荘半分は,応永7年12月30日に足利満兼から,同22年12月20日に足利持氏から別願寺領として安堵されたが,福田・平塚両郷はいずれも除かれている(同前)現在の南河内町のうちと思われるが,比定地は未詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
平塚郷(中世) 室町期に見える郷名大里【おおさと】郡春原【すんのはら】荘のうち観応□年4月13日の足利尊氏寄進状で「武蔵国春原庄内平塚郷地頭職 長江八郎左衛門尉跡」を寄進している(京都大学文学部所蔵文書)宛所が欠損しているため,どこに地頭職を寄進したか不明であるが,春原荘内とあることから江戸期の平塚新田の地と推定され,現在の熊谷【くまがや】市のあたりに比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」