ケータイ辞書JLogosロゴ 全隈郷(古代)


茨城県>水戸市

 奈良期〜平安期に見える郷名。「和名抄」常陸国那賀郡二十二郷の1つ。水戸市成沢町に大塚古墳群,同市木葉下町【あぼつけちよう】に古墳時代の小鍋遺跡,同市開江町に古墳時代の開江宿遺跡と下荒句古墳群,同市田野町に古墳時代の田野遺跡と馬場尻古墳群,同市堀町に古墳時代の西原遺跡と西原古墳群などがある。全隈町の集石跡は石斧を作った所ともいわれ,全国でも数少ない石器製造跡の1つ(水戸市史)。天平宝字5年2月22日の奉写一切経所解案に「奉写一切経所解 申請火頭等養物事 合右勇士衛火頭四人 応給養銭六百文 綿十屯〈人別二屯〉……三村部太万呂〈年廿八右頬黒子 常陸国那賀郡全熊郷戸主三村部真屋戸口〉」と見える(正倉院文書/県史料古代)。奈良期は「全熊」とも書き,三村部太麻呂は当郷から右勇士衛(右衛士府)の火頭(炊事などの雑用をする者)として上京したが,天平宝字4年から5年にかけて東大寺の写経所に転じ,その雑用を弁じた(水戸市史)。水戸市渡里町の台渡廃寺跡出土の文字瓦に「全」とあり,当郷を示すと考えられる(同前)。当郷は,はじめは茨城里の内で,和銅以後に茨城里から分離したという説もある(地名辞書)。「風土記」に見える「晡時臥の山」は,当郷の西境の朝房山に比定され,また,晡時臥の山の説話の中で努賀毘咩が産んだ蛇の子を入れた瓫と甕とが今も残ると記されている「片岡の村」は,笠間市大橋という説もあるが(郡郷考),水戸市木葉下町・谷津町一帯という説が有力。木葉下町三ケ野で,須恵器や瓦を焼いた窯跡が発見されている。現在の水戸市全隈町は郷名の遺称で,同町を中心とした水戸市北西部に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7276682
最終更新日:2009-03-01




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