ケータイ辞書JLogosロゴ 湊村(近世)


茨城県>ひたちなか市

 江戸期〜明治22年の村名。常陸国那珂郡のうち。はじめ佐竹氏領,のち慶長14年からは水戸藩領。村高は,寛永12年「水戸領郷高帳」1,714石余,「元禄郷帳」では古くは那珂湊村と見え2,427石余,「天保郷帳」2,645石余,「旧高簿」2,278石余。「水府志料」によれば浜田組に属し,戸数1,024,村の規模は東西約18町,南北1里25町余。水戸藩唯一の交易港としてにぎわい,北海道・東北地方の産米・海産物と江戸表海上輸送の中継港であった。さらに那珂川は東北南部の白川,下野【しもつけ】の物産を運輸する働きをし,東廻り航路内川廻りの拠点としての機能を増加させた。寛文10年東廻り航路の銚子廻りの海運が開かれても,なお鹿島灘での遭難は減少せず,那珂湊から江戸までの運送経路(涸沼川―海老沢―巴川―北浦―利根川―江戸川)は利用され続けた。文政6年の「諸国御客面付」や嘉永年間〜安政年間の「廻船入津覚」によると那珂湊の取引先や入津船はほとんど全国にわたり,なかでも北海道や東北地方と密接な関係にあった。海産物商人中の草分け的存在白土次郎左衛門は,すでに正保年間には江戸の商人と組んで陸奥南部藩と通商していた。このほか文化元年および文政8年の「水戸領内分限者番付」によれば,木内兵七・大内五衛門以下20名を超える豪商がおり,大関以下ではあるが湊村商人が上位を占めている。木内家は材木問屋でありながら大名貸しで大きくなり,幕末には4万2,000両余の貸金を水戸藩に持っていた(木内家文書)。天保年間廻船問屋を営んでいた桜井惣太夫は,秋味とよばれていた塩鮭を平潟で買受け,野州方面へ送っていたが,これを蝦夷地松前と直取引にすることを考え,陸路で買付けに出向き,親船で那珂湊へ輸入する基礎を築いた。親船は返り荷として刻煙草を積んで行ったため,煙草の製造が盛んになり,寛政2年の「国産物領外売出高」では第2位の1万6,615両を占めている。また工場も10余か所を数え,水府煙草の名産地として有名になった。さらに代荷として移入された麻で漁船用の綱などを作る産業が生まれた。郷士となった大内清衛門は天保9年5月北辺探検の命を受け,北海道・千島・カラフト,さらにはシベリアの一部を視察した。町場には廻船問屋・五十集【いさば】問屋・同仲買業者が集まり,御制札場が設置された。漁獲物値段の20分の1を藩に納める廿分一役は明暦3年以降行われ,元禄元年の「浦々諸肴廿分一役改」による当村の納税は303両鐚1貫45文。漁獲高は船主の申告によったため,文政2年藩は正確な舟庄屋の意見を求め,鰯漁の廿分一役について鰯漁船一艘切に改め,現物で受け取った20分の1をせり売りにさせた。河川の漁獲については鮭運上・鮎運上などがあり,ほかに船年貢・船役銭とよばれる船主の持船に課す税があった。鰯漁は享保年間海産物商人白土次郎左衛門が紀州から漁法を導入したことにより盛んになった。また那珂川の鮭地引網は有名で,近国の名品とされた(水府志料)。宝永6年穀留番所が設置された。林業では,安政元年の記事による御立山は5町3反7畝20歩。林産物の商品化も早く,寛政2年の「国産物領外売出高」では板・貫木・割木・木羽【こば】・付木類(第5位)に真木(第17位)を加算すると合計6,770両(第3位)となっている。寛政13年には材木薪炭の会所が江戸に設置され,一手に取引が行われた。山林には野銭がわずかにかけられるだけで当村は,上山百文・中山八十文・下山六十文となっている。このため山林が投資の対象となり,富農の兼併が行われ1年間の薪買上で金銭を費やす者が多く,これが原因で貧しくなるといわれた(水戸市史)。海岸線の長い水戸藩では,海防に対する関心が高く,初代徳川頼房の頃より異国船番所が設けられ,当地は大砲練習場と定められていた。また2代光圀が天和・貞享年間に造営した大船の1つ快風丸の蝦夷地渡航は,那珂湊を根拠地とした。元禄10年につくった水主組には,浜詰の同心を常置して海防の任に就かせた。享保8年船蔵を辰ノ口に移し,3艘の軍艦と2艘の遊憩船を置いた。文化年間には,当村に御船手方が置かれ,藩士が派遣されて駐在するようになった。駐在から土着の形で海防に力が注がれるのは天保年間で,同4年斉昭の水戸帰国中に計画された山野辺氏の土着は他藩でも例をみない大がかりなもので,当初は当村が任地の候補に掲げられたが,人口の半分(5,000余人)が他からの入来者でふさわしくないとされ,同7年助川村に決定し海防城が築かれた。反射炉築造・鉄製大砲鋳造と当地吾妻ケ丘で行われた海防政策は,水戸藩の危機感を裏付けている。天保13年冬,痘瘡の流行がひどく,当村にも600人の死亡者が出たため,本間益謙と玄調は非難をあびながらも種痘を実施した。主な災害として,延宝5年の津波による流失民家は30軒,溺死者は30人であった(水戸歴世譚)。火事は享保17年1,000戸余を焼失した玄宝屋【げんぼや】火事,天保12年の六四郎火事がある。当村は水戸城に近いこともあり,各種の施設が設置された。初代頼房は寛永年間に砲台,2代光圀は元禄10年日和山に湊御殿とか御浜御殿と呼称される賓閣【いひんかく】を建造し,主に遊興の場とした。6代治保は寛政3年比観亭を設け,9代斉昭は天保6年八幡ノ上に郷校敬業館を,安政4年山ノ上に文武館を建築した。また安政元年〜4年にかけて高台に反射炉2基を建設している。当村には堀川・川上・深作の3塾があった。天狗党の乱には,当村からも27人が参加し,うち14人が捕殺され,湊村一帯はほとんどが灰となった。寺社は柏原明神・天神社・津明神・真言宗華蔵院・浄土真宗浄光寺・時宗光明寺(新編常陸)。明治3年1月当村出身の御用商人木内兵七は天塩国産物取扱を命ぜられ,北海道開拓に一役買っている。さらに同年6月には当村に会所が設けられ桜井精一郎らに北海道産物会所御用達が申し付けられた。明治4年茨城県,同11年那珂郡に所属。同13年県下に自由民権運動が起こり,結城郡の同舟社が中心となって筑波山で開かれた会合に当村から板橋善四郎・峰岸善之助が参加している。明治12年湊煙草業組合が設立され,同14〜15年頃の生産高は全国で2,3位といわれ,川上弥介が盛大であった。同17年には湊煙草職工仲間規約を制定,ついに輸出物品の中で〆粕・干鰯をしのいで1位となる。同18年足踏機械が導入された結果,工場制手工業へと発展した。明治6年文武館が再建され水門小学校となる。同19年湊尋常小学校となる。明治22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7276828
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ