ケータイ辞書JLogosロゴ 湊町(近代)


茨城県>ひたちなか市

 明治22年〜昭和14年の那珂郡の自治体名。大字は編成せず。明治24年の戸数2,173・人口1万752,船426。世帯・人口は,大正9年2,720・1万1,753,昭和10年3,112・1万4,630。煙草製造業は明治20年代に入り足踏機械の導入によって量産化が可能となり,最盛期を迎えた。同24年の湊煙草商組合員は55名,のち67名となり湊町の経済を支えていたが,同30年代は下降状態となり,同32年以降は製造者も47人に減少。原因は製造者の乱立とそれに伴う製品の粗製濫造,さらに原料の葉煙草不足による粗悪品の出現で湊煙草の名声が落ちたことに加え,日清戦争後の不景気が拍車をかける形となった。こうした状況下,専売法が公布され,同37年紙巻煙草,翌38年には刻煙草が国の独占事業になったことにより,湊煙草製造業も姿を消した。このほかに主な産業として明治41年宮崎利七によって静岡から導入された甘藷切干製造があり,製造所は小川町に設立。当地最大の経済基盤は漁業で明治16年水産集談会,同24年漁業組合設立。これに功績のあった大川健介は,漁業改良にも力を注ぎ改良揚網の採用・漁港築港などを実施した。また明治20年前後は漁業経営の転換期で,仲買商的鮮魚商が船主へ転業,または兼業の船主が増加し,「岡の船主」「船頭制度」が生まれた。明治32年那珂川汽船組合向運舎,汽船商社設立。同34年に合併し那珂川汽船となる。航路は湊〜水戸間で大正2年湊鉄道が開通するまで運輸の主要機関であった。同5年湊鉄道に吸収合併され同12年廃止。当町には幕末から存続している私塾が盛んで,学制発布後,明治20年代に私立敬業学館・私立時習学舎が設立され,同28年私立水門尋常小学校が開校。私学校は主として漢学を教えたが,これに対し明治30年代女子教育の目的で裁縫女子校設立。同34年には湊商業会議所によって湊商業学校が設立され,同年水戸市との間で県立商業学校移管の争いが起こったが,当町の敗北に終わった。明治40年,湊鉄道創立,国鉄常磐線と連絡する形で路線計画が出され,大正2年,勝田〜湊間が開通。また大正10年水浜電車が竹内権兵衛によって創立され,同11年浜田〜磯浜間の軌道敷設工事が完成。同15年には磯浜町の祝町までの延長線が完成。さらに昭和5年に湊町警察署前まで開通,水戸―磯浜―湊間の路線計画が湊鉄道・水浜電車により完成した。昭和7年に起きた五・一五事件には当町から照沼操・堀川秀雄の2名が参加。昭和14年那珂湊町と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7276829
最終更新日:2009-03-01




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