ケータイ辞書JLogosロゴ 南町(近世〜近代)


茨城県>水戸市

江戸期〜現在の町名江戸期は水戸城下上町の1町明治22年からは水戸市上市のうちで,昭和8年からは水戸市の町名同41年からは1〜3丁目がある水戸城の西に位置する武家町「新編常陸」によれば,大町・中町とともに佐竹氏の時は町家で,真言宗円雲院・福寿院・若宮坊は慶長6年泉町へ移され,寛永元年〜8年には真言宗東覚院など地内の山伏はすべて他町に移され,また商家も「田町越」で下町へ移って当町は武家町となった「水府地理温故録」によれば,西郷半左衛門の屋敷は佐竹氏在城時に用金を埋めた所と伝え,高山勘左衛門家は仕掛火矢や軍用品に詳しく,何の役に就いても同心5人が付され世上に御隠密同心と称するという寛政9年の武家屋敷数36(水戸の町名)幕末には彰考館総裁会沢正志斎が私塾南街塾を開いた明治期以降商人が多く移住して,水戸の中心的商業町となった(同前)明治24年,いはらき新聞社設立同社は当時の茨城県庁の御用新聞「茨城日報」に対抗して設立されたもので,関戸覚蔵・飯村丈三郎らかつての自由民権運動家を中心に,本田五陵・服部鉄石・佐藤秋蘋・東白蘋・鹿島桜巷・弓野北峡・小松原暁子らが健筆をふるい,のち県内言論界の中心となった大正10年常磐銀行が下市から移転,昭和10年五十銀行を併合して常陽銀行と改称同行の敷地には水戸初の硝子工場を始めた古川哲三郎が住した幕末に居住していた武家はすべて他に移り,明治・大正期に繁栄した商人ものちに動いて現在ほとんど当町には残らないといわれる昭和25年の世帯250・人口1,232(水戸の町名)昭和41年裡南町および奈良屋町・黒羽根町・南三ノ丸・仲町・元白銀町・藤沢小路・鷹匠町・西町・鈴坂町・幸町の各一部を編入し,同年一部が泉町1丁目となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7276865
最終更新日:2009-03-01




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