ケータイ辞書JLogosロゴ 山田郷(中世)


茨城県>真壁町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。常陸国真壁郡のうち。寛喜元年7月19日の将軍九条頼経袖判下文に,「常陸国真壁郡山田郷地頭職事」と見える(真壁文書/鎌遺3847)。これは,真壁友幹から妻の藤原氏子に一期譲与された当郷地頭職の安堵状で,氏子死去後は薬王丸の知行となることが明記され,当郷は,友幹から嫡子時幹に譲与された14か郷の地頭職(真壁文書/鎌遺3848)とは別に,庶子家に伝領されていく。弘安田文に「山田二十二丁」と見え(税所文書/県史料中世),嘉元田文も同数値で記載(所三男氏所蔵文書)。元亨2年3月2日の真壁郡役夫工米田数注文にも「山田郷〈弐拾弐町〉」と見える(税所文書/県史料中世)。観応3年12月23日,光幹は美濃に在国していたのか,当郷のうち「ねもとの弥次郎入道か在家壱宇〈田壱町〉・賀平六入道か在家壱宇〈田壱町〉」は永代知行地であるが,「遠所」のため代わって美濃国小木曽荘にて在家1宇田5反を相伝している(真壁文書/大日料6-17)。また文和5年3月日の真壁広幹訴状に「欲早被停止税所十郎〈不知実名〉違乱任祖父真壁小太郎政幹譲状仰御使被打渡常陸国真壁郡内山田郷事」と見え(真壁文書/大日料6-20),当郷は祖父政幹の代に本宗家の所領となり,観応3年12月23日広幹に譲与されたが,文和4年3月晦日,税所十郎が当郷へ「打入」,下地を押領していた。この相論に対する裁許は不明だが,永和3年の顕幹への広幹譲状に当郷は見えない(真壁文書)。永享7年8月9日の常陸国冨有仁注文写に「山田郷 度城坊 完戸兵庫助知行」と見える(続常陸遺文)。この度城坊は慶城坊の誤写と思われ,文明18年9月,聖護院門跡准后道興は「山田慶城といへる山伏の坊」に逗留し(廻国雑記/群書18),天文18年3月19日の名門坊改源旦那売券にも「真壁一円 先達者山田慶城坊門弟引共」と見え,真壁地域の先達であった(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書)。享徳5年6月3日の某左衛門尉康定・前下野守義行奉書に,「常陸国真壁郡……山田郷……等事」と見え,真壁朝幹は,某(宍戸氏か)と所務相論の結果,係争地を折半され,当郷は再び真壁本宗家,朝幹の所領として打渡されている(真壁文書/古河市史)。永禄2年6月1日,久幹は「名字之地廿余郷」を古河公方足利義氏から安堵され,戦国期も真壁氏の支配下にあった(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7277225
最終更新日:2009-03-01




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