ケータイ辞書JLogosロゴ 若林村(近世)


茨城県>境町

 江戸期〜明治22年の村名。下総国猿島【さしま】郡のうち。関宿藩領。村高は,「元禄郷帳」1,045石余,「天保郷帳」1,053石余,「旧高簿」1,064石余,ほかに若林村新田5石余,「旧高旧領」1,053石余。村内は,蓮台・新田・本田の3地区からなり,はじめ4組に分かれていたがのち2組となった。鹿狩は享保10年・同12年・寛政7年・嘉永2年に勢子を出し,嘉永2年には岩井組合とともに出役。助郷は享保11年・同13年・天保14年の将軍日光社参に勤め,明和3年日光法会に際して日光街道野木宿(栃木県)に人馬を出し,嘉永3年日光法会には金14両2朱余を出し買人馬にて古河宿に勤めた(助郷雇金取極議定書)。慶応4年4月大鳥圭介が旧幕府軍を率いて岩井に来た際,岩井組とともに農兵を組織し自衛策に出た。同年には会津戦争に伴う新政府軍の送迎のため,日光東街道宿々に助郷した。普請役は,寛政4年,千間堤切れの修復に人足1万648人・経費202両要したが当村は361人を出し,賃永は6貫文余。嘉永4年の小山逆留に当村では人足347人出した。村堺1町歩をめぐる村内騒動があり,慶応2年には若林村上組議定取極(中村家文書)が作成されている。なお当村の勘助は享保年間の飯沼新田開発に際し,勘助新田を開いた。寺社は,真言宗金剛院・蓮生院,鷲神社・香取神社・大杉明神。明治8年茨城県,同11年猿島郡に所属。明治22年森戸村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7277414
最終更新日:2009-03-01




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