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「稲荷町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
稲荷町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は日光門前東町の1町古くは稲荷川左岸に位置し,皆成川村・稲荷川町と称したが,寛文2年の洪水ののち人家が大谷川右岸の現在地に移転してからは...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7277796]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 稲荷町(近世~近代) 江戸期~現在の町名明治17~22年は富山を冠称富山城下鼬【いたち】川と赤江川の間に位置する延宝年間富山町端柳町の境から加賀藩領境の橋まで南側に家屋が建ち並んだので,その田地歩高1万5,900歩余の地子銀,および懸銀を免除し町立てを行い稲荷町とした(富山町方旧事調理/県史近世下)安永2年の町名書上に散地分として稲荷町の名が見え,安永8年には1~7丁目があり,家数302,うち本家164・貸家138(町方旧記抜書/県史近世下),天保12年には丁目数は変わらず,本家貸家竈数317・人口1,327,うち男643・女684,橋数4南にある稲荷社には佐々成政の天正8年制札が保存される上杉謙信が城攻めのため1晩で築城した稲荷城はこの神社の横であったという(広報とやま)天台宗照岸寺,北に浄土宗蓮台寺・浄土真宗明栄寺がある(富山町方旧事調理/県史近世下)赤江川の関所は富山領稲荷町と加賀領綾田口【あいでんぐち】の境に設けられ,安政4年の駕腹事件の舞台となった所である明治6年興麗小学校(のちの柳町小学校)が当町蓮台寺に設立明治9年石川県,同16年富山県に所属同22年富山市稲荷町となる明治42年の戸数419・人口1,974,うち男977・女997(富山市統計書)昭和4年の戸数385・人口1,771,同30年の戸数347・人口1,760同40年現行の稲荷元町2丁目・稲荷1~3丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 稲荷町(近世~近代) 江戸末期~現在の町名江戸期は八戸城下の1町で,武家地城下の北西に位置し,東は徒士【かちし】町,西と北は糠塚村,南は荒町に隣接する町名は北にあった稲荷神社に由来する江戸末期に糠塚村の地を割いて作られた町と考えられる「八戸藩勘定所日記」安政4年5月17日の条に新稲荷丁と見え,藩士の屋敷替えを記載している明治初年の「国誌」では稲荷町として家数12明治初年~明治22年まで八戸を冠称する場合があった同22年八戸町,昭和4年からは八戸市に所属明治27年の「八戸実地明細絵図」には,穀物商の精米所がみられる同30年には当町に八戸印刷が開業,ほどなく長横町へ移転した大正2年8月,当町北側の糠塚地内に八戸産馬組合が設けられ,その正面通路となったこのため第2時大戦前までは牛馬宿などもみられた昭和33年八戸産馬組合跡に八戸遊園地が開園,同39年からは市へ移管となった地内にあった八戸タワーは同43年の十勝沖地震で上部が折れ曲がり,以後閉鎖された昭和期の世帯数・人口は昭和5年・68・138,同35年99・448... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 稲荷町(近世~近代) 江戸期~現在の町名七条通鴨川筋西入の町町名は当町に松明殿稲荷神社があることに由来する(府地誌)「坊目誌」によれば,当地はもと妙法院門跡領の耕地で,宝永8年松明殿稲荷神社を遷宮するに及び町名を付したという「宝暦町鑑」では,七条新地の中の1町松明殿稲荷神社は田中社とも称し,天暦2年の勧請と伝え,天照大神以下6神を祀る七条通東洞院にあったが,元禄の末にその南に火葬場ができ,宝永8年に妙法院門跡に請願して,当地に移転した明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】18番組,同5年第26区と改称,同25年第26学区に編成明治12年下京区稲荷町,同22年京都市下京区稲荷町となり現在に至る大正2年当町北の七条通に市電が開通世帯数・人口は,明治44年19世帯・78人,大正14年18世帯・92人,昭和40年25世帯・104人人口増減率(昭和40~50年)29%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 稲荷町(近世~近代) 江戸期~現在の町名河原町通四条下ル2丁目の町寛文10年鴨川新堤築造と相前後して開地し,人家を建設(坊目誌)町名は,開発当初に稲荷の小祠が所在したことによる(同前)天正19年に豊臣秀吉が築いた御土居は,当町の西側を南北に走り,現在地は洛外であった元禄年間から宝永年間頃に土居をひらいて町地とし,18世紀中頃には土居藪は姿を消した(同前)宝暦4年の家数は78,うち本家4・借家74,人数143,また洛中のように地子免除はうけておらず,享保18年には3石9斗余を銀納した(北村家文書)江戸期は下中筋組の下河原卅二町組,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】12番組,同5年第14区と改称,同25年第14学区に編成明治12年下京区稲荷町,同22年京都市下京区稲荷町となり現在に至る人口増減率(昭和40~50年)50.3%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 稲荷町(近世~近代) 江戸期~現在の町名間之町通高辻下ルの町天正18年豊臣秀吉の洛中都市改造によって新しくひらかれた町寛永14年洛中絵図・寛文12年洛中洛外大図には「稲荷町突抜」とあり,宝永2年洛中洛外絵図・「宝暦町鑑」には現町名が見える町名の由来は,当町西側に所在した江戸初期の俳人松永貞徳の邸内に花咲稲荷社が鎮座したことによる(都名所図会)江戸期は巽組の四町組,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】10番組,同5年第12区と改称,同25年第12学区に編成明治12年下京区稲荷町,同22年京都市下京区稲荷町となり現在に至る大正期,下京税務所(現在間之町通五条下ル大津町)・京都区裁判所下京出張所(現在廃止)が設置されていた人口増減率(昭和40~50年)28.8%減... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」