ケータイ辞書JLogosロゴ 小野寺保(中世)


栃木県>岩舟町

 鎌倉期〜戦国期に見える保名。都賀郡のうち。当保の成立年代,領主関係は不明であるが,小野寺は延暦寺3世座主円仁(慈覚大師)の出身地で,この地に天平9年天台宗寺院大慈寺(通称小野寺)が建立されたと伝えられるところから,当保は大慈寺領として成立した可能性がある。大慈寺の坊官と考えられる首藤一族の小野寺義寛を祖とする小野寺氏が,平安末期から中世を通じて当地を拠点とした(小野寺系図/県史中世4)。弘安2年冬,一遍上人が信濃から奥州白河へ赴く途中小野寺にさしかかった時,激しいにわか雨に降られ「ふればぬれぬるればかはく袖のうへをあめとていとふひとのはかなき」と詠んでいる。「一遍上人絵伝」には,通過する一行の背景に大慈寺の楼門や堂舎が描かれている(一遍聖絵)。小野寺氏は平安末期には藤姓足利氏に属し,鎌倉期には幕府の御家人となった。「平家物語」巻4の「橋合戦」の項に小野寺禅師太郎の名が見え,これは小野寺氏2代の通縄と思われる。小野寺保は三杉川の形成するヤトに立地し,暦応元年6月18日の小野寺通氏譲状によれば,小野寺保7か村が通氏から顕通に譲与されている(小野寺文書/県史中世1)。以後,小野寺保7か村は南北朝期〜室町期にかけて通氏―顕通―連通―通業―朝通と代々小野寺氏に相伝された(同前)。この小野寺保7か村について,現在の岩舟町小野寺・古江・渋沢(現古江字渋沢)・上岡・下岡・三谷・新里の旧小野寺村に比定する説があるが(岩舟町の歴史),このうち上岡・下岡・三谷・古江・新里は佐野荘のうちであり,適切でない。年月日未詳の所領注文案に「小野寺保内 石橋 畑 田代」と見え(小山文書/県史中世1),石橋・畑・田代が小野寺保7か村のうちの3か村と思われ,小野寺村も7か村の1つに数えられる可能性がある。ほかの村は不明であるが,石橋・畑・田代はいずれも現在の岩舟町小野寺の字名として残ることから,小野寺保は小野寺を中心としたかなり限定された地域であったと思われる。なお,この所領注文案は阿曽沼氏の所領と室町期以降の小山氏の所領を含む形で,応永年間以降に作成されたものであり,小山氏が小野寺保内の所領を獲得したかどうかは未詳。小野寺氏は,南北朝期には足利氏に属して戦功を立て,小野寺保以外に佐野荘小中郷・堀籠郷,足利荘内河崎3か村,牧野荘12か村などの地頭職を領した(小野寺文書/県史中世1)。また,戦国期には熊野先達として当地の不動房が知られる(米良文書/県史中世4)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278261
最終更新日:2009-03-01




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