ケータイ辞書JLogosロゴ 風見村(近世)


栃木県>塩谷町

 江戸期〜明治22年の村名。塩谷郡のうち。はじめ宇都宮藩領,寛延3年から下総佐倉藩領,明和元年からは再び宇都宮藩領。村高は,「慶安郷帳」404石余(田212石余・畑192石余),「元禄郷帳」388石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに392石余。年貢米はいったん郷蔵に納められ,藩の指示により,宇都宮城下に駄送するか,3里から3里半離れた阿久津河岸から江戸廻米として津出しされた。山家役として,上平河岸に集荷された薪・茅・炭などを阿久津河岸や宇都宮まで搬出する付馬が課せられていた。また鬼怒川簗運上金・御用鮎も課せられていた。助郷は奥州街道氏家宿の加助郷を勤め,日光御成の節は助郷は免除されたが,鬼怒川に架橋する義務が課せられていた。当村には奥州街道喜連川【きつれがわ】宿から今市に至る横道が通り,那須方面の幕府領から多量の今市宿御蔵詰御用米が駄送され,これを継立てた。宝永8年の村差出帳によれば,家数58,馬56。「改革組合村」では玉生村組合寄場に属し,天保年間の家数26。明神山には大己貴命を祀る東護神社があり,例祭は4月3日。寺院には河内郡上桑島村金剛定寺末の真言宗持明院がある。用水は鬼怒川・松川からの引水と風見山田村の溜池からの引水による。なお溜池からの引水は水替籾4俵を風見山田村に支払う。文久3年旱天が続いて灌漑用水が不足したため,当村と風見山田村は水利をめぐって争論した。秣場は村内になく,風見山田村向川原に風見山田・風見・上平3か村共同の秣場入会地があり,野銭として年間830文を風見山田村に支払う。耕作は稲作を主とするが,畑作も多く小麦・稗・大豆・小豆・油荏などを栽培する。農間余業は男女とも薪や秣を取り,駄馬にて宇都宮や氏家へ付け出し,販売した。女は少々糸繰りを行う。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同7年大宮村宝福寺に時習館が開校。明治22年大宮村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278338
最終更新日:2009-03-01




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