ケータイ辞書JLogosロゴ 風見山田村(近世)


栃木県>塩谷町

 江戸期〜明治22年の村名。塩谷郡のうち。はじめ宇都宮藩領,寛延3年から下総佐倉藩領,明和元年からは再び宇都宮藩領。村高は,「慶安郷帳」310石余(田237石余・畑72石余),「元禄郷帳」327石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに329石余。年貢米はいったん郷蔵に納められ,藩の指示により,宇都宮城下に駄送するか,3里半から4里離れた阿久津河岸から江戸廻米として津出しされた。また山家役として,上平河岸に集荷された薪・茅・炭などを阿久津河岸や宇都宮まで搬出する付馬が課せられた。助郷は奥州街道氏家宿の加助郷を勤め,日光御法会の時には日光街道大沢宿へ人馬を出した。さらに日光北街道船生宿にもたびたび人馬を出した。寛延3年の村差出帳によれば,家数43・人数221(男126・女93・僧1・禰宜1),馬数15。後山に磐裂命を祀る星宮神社があり,江戸期には虚空蔵と称したが,神仏分離以後星野宮神社と改称する。祭日は11月13日。寺院は禅宗喜連川【きつれがわ】竜光院末の法林寺がある。寛政2年の五人組帳によれば,家数29・人数143,馬22。「改革組合村」では玉生村組合寄場に属し,天保年間の家数17。用水は地内の溜池と松川からの引水および隣村飯岡村の排水を利用する。秣場は向河原に風見山田・風見・上平3か村の共同の秣場入会地があった。享保3年には秣場の境界をめぐり,当村と河内郡小林村との間に争論があり,評定所の裁許により決着した。耕作は稲作を主とするが,畑高55石余を隣村の金枝村に無役越石として所持し,畑作では麦・稗・あわ・大豆・小豆・油荏などを栽培する。農間余業は男女とも地付林にて薪を切り,駄馬にて宇都宮や氏家へ付け出し,販売する。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同7年大宮村宝福寺内に時習館が開校し,これに学ぶ。明治22年大宮村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278340
最終更新日:2009-03-01




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