ケータイ辞書JLogosロゴ 糟尾郷(中世)


栃木県>粟野町

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。安蘇郡のうち。「頼印大僧正行状絵詞」永徳2年3月22日条に「同(永徳2年)三月廿二日夜,永賢并若犬丸,祇薗城ヲ放火シテ,糟尾之奥ニ城ヲ構フ」と見える(続群9上)。康暦2年鎌倉公方足利氏満に反旗を翻した小山義政は,一時氏満と和睦したが,永徳2年3月三たび挙兵し,氏満の軍勢に祇薗城を攻撃され,息若犬丸とともに当地に逃れ,粕尾城に籠城した。しかし,同年4月の烟田重幹代井河信吉軍忠状案に「同(永徳2年)四月八日令供奉長野御陣,同十二(一カ)日追落糟尾寺窪城,即時仁罷向樻城(櫃沢城)責登南山致合戦訖」と見え(烟田文書/県史中世3),糟尾城(寺窪城)を攻め落とされた小山義政は同城の支城櫃沢城に逃れたが,4月13日自害し(鎌倉九代後記など),若犬丸は奥州へ逃れた。下って戦国期には,永禄7年卯月27日の佐野昌綱充行状写に「於糟尾郷之内,五千疋所可被致知行候」と見え,小曽戸泰忠に当郷内の5,000疋の地が充行われている(島津文書/県史中世4)。同年6月9日の佐野昌綱安堵状によれば,小曽戸泰忠に当郷内の50貫656文が安堵されたが(同前),戦国期と推定される年未詳12月3日の忠景・宅広連署充行状写によれば,糟尾郷には小曽戸氏の知行地のほかに「六人之知行并大塚給分」があった(同前)。下って,慶長17年8月6日の関東八州真言宗諸寺連判留書案に「〈佐野糟尾村九月七日午貝〉竜栄寺在判」と見え,当地の竜栄寺も署名している(醍醐寺文書/県史中世4)。当地は中世日光神領66郷のうちの1郷であったという(日光山常行三昧堂新造大過去帳/県史中世4)。現在の粟野町上粕尾・中粕尾・下粕尾付近に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278350
最終更新日:2009-03-01




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