上高根沢(近代)
明治22年〜現在の大字名。はじめ北高根沢村,昭和33年からは高根沢町の大字。明治22年上高根沢尋常小学校を南部尋常小学校と改称。同24年の戸数167・人口1,487(男740・女747),水車場8。同44年の戸数212・人口2,047。明治27年字向戸の大地主阿久津徳重は県内で最も早く70町歩の耕地整理を独力で行って大農場式経営に改め,同32年には地主と小作人の意志疎通を図るため向戸共同農事組合を設立。同33年南部尋常小学校を上高根沢尋常小学校と改称。同43年向戸裁縫女学校を設立。また字西根には明治9年に設立された義務教育修了者を対象とする宇津学校があり,昭和10年頃まで存続した(高根沢町郷土誌)。段丘上は畑作が主として行われ,特産物に煙草がある。東部の平坦地は水田が主体となっている。明治30年代から昭和初期にかけて盛んに耕地整理が行われ,実施地区は11か所を数える。世帯・人口は大正9年405・2,284(男1,160・女1,124),昭和10年447・2,687。昭和30年代後半からは段丘上の開発が進められ,同44年に千葉県から宮内庁御料牧場が移転,道路が整備された。また観光ブドウ園を経営する農家も増えた。同53年本田技研プルービングラウンドが建設された。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278559
最終更新日:2009-03-01