ケータイ辞書JLogosロゴ 苅生田村(近世)


栃木県>市貝町

 江戸期〜明治22年の村名。芳賀郡のうち。「慶安郷帳」「旧高旧領」では刈生田村と見える。はじめ幕府領(代官ははじめ市川孫右衛門,寛文5年福村長十郎,元禄年間北条右近太夫),元禄年間幕府領と旗本杉田氏の相給,天保14年からは幕府領・旗本杉田氏および烏山藩領(441石)の相給。幕末には幕府領(代官山内源七郎)47石余・杉田氏知行58石余・烏山藩領441石余。村高は,「慶安郷帳」390石余(田136石余・畑223石余),寛文5年の検地では538石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに572石余,「旧高旧領」では588石余,ほかに密蔵院領26石余・高雄明神除地6石余・医王寺除地8石余。「改革組合村」では烏山・酒主宿組合寄場に属し,天保年間の家数41。元禄13年日光神領の困窮のため幕府は当村をはじめとする幕府領16か村を「足知」することに決めたが,日光側の反対のため宇都宮藩領6か村を「足知」することになり,当村の領知替えは中止となった(県史近世6)。正徳5年日光において徳川家康の100回忌法会が営まれた際,日光街道壬生【みぶ】通の通行量増大に伴って,当村は鹿沼宿の増助郷に指定された(県史近世1)。社寺には高雄神社と真言宗豊山派朝日山医王寺がある。高雄神社は正保年間の創建で,水井守護神として武美那方命を主祭神とする。医王寺は明治期に稲毛田崇真寺の末寺となり,そののちに廃寺となった。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同年刈生田学校を誘善館として開校,のち誘善舎と改称。文久3年名主役となった佐藤庄太郎は明治19年千本村外12か村の戸長をつとめるなど,明治の混乱期を地域のために貢献した。明治22年小貝村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278667
最終更新日:2009-03-01




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