ケータイ辞書JLogosロゴ 喜連川(中世)


栃木県>喜連川町

 鎌倉期から見える地名。塩谷郡のうち。喜連河・喜烈川・狐川・狐河とも見える。鎌倉末期に撰せられた「夫木抄」に,藤原定家の子為家の歌として,「とにかくに人の心の狐川かけあらはれん時をこそまて」と歌枕に詠まれている(校註国歌大系)。室町期に成立した「義経記」に「きづかはを打過ぎて,下橋の宿に著ゐて,馬を休ませて,絹河の渡して,宇都宮の大明神伏拝み参らせ」と見え,「きづかは」は当地を指すと思われ,源頼朝挙兵の報を聞いた義経は,奥州から頼朝のもとへ行く途中当地を通ったという(古典大系)。「廻国雑記」にも「きつね川といへるさとに行暮てよめる」と見え,文明19年京都の聖護院門跡准后道興は当地をおとずれ,「里人のともす火かけもくるゝ夜によそめあやしき狐川哉」と詠んでいる(群書18)。喜連川は,塩谷に本拠を置く宇都宮氏の支族塩谷氏の勢力下にあり,15世紀後半の享徳の乱においては,年未詳ではあるが,12月17日の白川修理大夫宛将軍足利義政感状に「今度於塩谷狐河外城攻落之由,注進到来候訖」と見え,将軍義政は,白川修理大夫が当地を攻撃し,喜連川城の外城を攻め落としたことを賞している(東京国立博物館所蔵文書/県史中世3)。これにより,塩谷氏は足利成氏方に属して,喜連川城に拠っていることが知られる。この文書が喜連川城(倉ケ崎城)の初見である。その後,塩谷氏は滅亡するが,宇都宮氏から孝綱が入って塩谷家を再興し,その子義孝が塩谷,同じく孝信が喜連川に在城した。しかし兄弟間に争いが生じ,義孝は宇都宮氏に,当地の孝信は那須氏に属したという(下野国誌)。下って,戦国初期と推定される年未詳10月12日の足利政氏書状写によれば,去年当地は那須氏に充行われたが,その後塩谷九郎が当地を乗っ取ったため,塩谷氏へ充行われている(那須文書/県史中世2)。戦国期には当地で度々合戦が行われ,天文5年10月7日二階堂続義が石井上総に当地における戦功を賞し(石井文書/県史中世3),天文14年10月10日には宇都宮俊綱が小宅高尚に,同年10月4日の当地での合戦における戦功を賞している(小宅文書/県史中世1)。天文18年9月にも那須攻めに出陣した宇都宮俊綱勢と,これに応じる那須高資勢は当地の五月女坂で合戦し,宇都宮俊綱が討死し,宇都宮勢が敗れている。同年9月28日那須高資は興野尾張に五月女坂の合戦で宇都宮俊綱を討ち取ったことを賞しているが,本文書は研究の余地がある(益子文書/県史中世1)。また,年代は未詳であるが連歌師宗長は「宇津山記」に「那須高資・芳賀ガカタラヒニヨリ,喜連川女坂ニテ宇都宮尚綱ト合戦」と記している(群書27)。下って,天正13年5月15日那須資晴が多賀谷下総守へ塩谷弥七郎が喜連川に帰城したことを報じている(那須興一氏旧蔵文書/県史中世1)。これにより,那須氏後援のもとに塩谷氏は統一された。これ以前,永禄10年9月26日塩谷伊勢松丸は伊勢内宮の御師佐八掃部丞に「喜連川大蔵崎郷道西内」を寄進している(佐八文書/県史中世2)。天正9年には,古河公方足利義氏は喜連川竜光院の栄札西堂に鎌倉禅興寺住持職を補任している(帰源院文書/神奈川県史3下)。天正18年の小田原合戦の際と推定される年月日未詳の関東八州諸城覚書には「一,狐川〈塩屋弥六〉」と見える(毛利家文書/県史中世4)。これにより,義孝の子塩谷弥六郎義綱が喜連川城を保持していることがわかる。天正18年豊臣秀吉は,小田原北条氏没落後,古河公方足利義氏の息女と結婚した足利国朝に古河公方足利家を継がせ,喜連川へ封じた(喜連川判鑑/県史中世4)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7278786
最終更新日:2009-03-01




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